この苦《にが》い酒を醸《かも》す醗酵分子《はっこうぶんし》となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊《き》かれると、彼女はとても判然《はっきり》した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸《ふめいりょう》な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念《けねん》を抱《いだ》かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総《すべ》ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
芝居が了《は》ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑《ごたごた》した間際《まぎわ》に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦《あき》らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭《かげ》から、ちょいちょい首を出した。
茶屋は幸にして異《ちが》っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟《えり》に毛皮の付いた重そうな二重廻《にじゅうまわ》しを引掛《ひっか》けながら岡本がコートに袖《そで》を通しているお延を顧《かえり》みた。
「今日は宅《うち》へ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
泊るとも泊らないとも片づかない挨拶《あいさつ》をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆《あき》れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着《むとんじゃく》なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目《まじめ》な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要《い》らないから」
「泊っていけったって、あなた、宅《うち》にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
そんなら止《よ》すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介《ごやっかい》になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至《いたり》だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃《そろい》で、お
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