ります」
 夫人は医者の名前と住所《ところ》とを訊《き》いた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒《なお》るまでよく養生するように、そう云って下さい」
 お延は礼を云った。
 食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。

        五十六

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾《はらん》も来なかった。ただ褞袍《どてら》を着て横臥《おうが》した寝巻姿《ねまきすがた》の津田の面影《おもかげ》が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那《せつな》に、「いや疳違《かんちが》いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗《のぞ》いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙《だま》されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打《したうち》をしたくなった。
 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後《ゆうめしご》に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後|二様《によう》の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰《く》り返《かえ》さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓《テーブル》で晩餐《ばんさん》を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、
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