のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺《あたり》へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例《ためし》のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合《あい》だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生《なま》っ白《ちろ》い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞《しま》の着物をぞろりと着流して、博多《はかた》の帯をわざと下の方へ締《し》めたその色男は、素足に雪駄《せった》を穿《は》いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍《そば》にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然《しか》るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳《せき》一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分|後《うしろ》を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊《き》いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人|芝居《しばや》へ行くなんて不埒千万《ふらちせんばん》だとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
 小声でさえ話をするものが周囲《あたり》に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌《ごきげん》を損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
 お延は煩《うる》さそうに眉《まゆ》を動かした。面白半分|調戯《か
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