内へ響き渡った。合間合間には幕の後《うしろ》で拍子木《ひょうしぎ》を打つ音が、攪《か》き廻《まわ》された注意を一点に纏《まと》めようとする警柝《けいたく》の如《よう》に聞こえた。
 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間《まくあい》を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟《しげき》を盛って、他愛《たわい》なく時間のために流されていた。彼らは穏和《おだや》かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐《は》く呼息《いき》に酔っ払った彼らは、少し醒《さ》めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
 席に戻った二人は愉快らしく四辺《あたり》を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘《ねら》っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探《さが》してあげましょうか」
 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛《あ》てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前《ににんまえ》ぐらい肥《ふと》ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗《きれい》な友染模様《ゆうぜんもよう》の背中が隠れるほど、帯を高く背負《しょ》った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪《こら》えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘《たし》なめた。
「百合子さん」
 妹は少しも応《こた》えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨《ふく》らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍《かたわら》に、お延が年相応の分別《ふんべつ》を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶《ごあいさつ》をして来ましょうか。澄《す》ましていちゃ悪いわね」
 
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