の注意を惹《ひ》く粧飾《しょうしょく》としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気《おぼろげ》ながら見えて来た時、彼は彼の己惚《おのぼれ》に訊《き》いて見た。
「そう旨《うま》くは行かないものかな」
 彼は黙って煙草《たばこ》を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早《あしばや》に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

        六

「おいお延《のぶ》」
 彼は襖越《ふすまご》しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙《からかみ》を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢《ながひばち》の傍《わき》に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点《つ》いた室《へや》を覗《のぞ》いた彼の眼にそれが常よりも際立《きわだ》って華麗《はなやか》に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出《はで》やかな模様《もよう》とを等分に見較《みくら》べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇《ひおうぎ》模様の丸帯の端《はじ》を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締《し》めた事がないんですもの」
「それで今度《こんだ》その服装《なり》で芝居《しばや》に出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何《なん》にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉《まゆ》をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作《しょさ》は時として変に津田の心を唆《そその》かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側《えんがわ》へ出て厠《かわや》の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞《ふさ》ぐようにして訊《き》いた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢《ながじゅばん》よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函《ゆうびんばこ》の中を
前へ 次へ
全373ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング