だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田にはその変なところが明暸《めいりょう》に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関《かか》わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我《が》が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
 お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らしてそっと立ち上った。いったん閉《た》て切《き》った障子《しょうじ》をまた開けて、南向の縁側《えんがわ》へ出た彼女は、手摺《てすり》の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干《ものほし》に隙間《すきま》なく吊《つる》されたワイ襯衣《シャツ》だのシーツだのが、先刻《さっき》見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
 お延が小さな声で独《ひと》りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然|籠《かご》の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍《そば》に縛《しば》りつけておくのが少し可哀相《かわいそう》になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂《つぎほ》のないのに困った。お延も欄干《らんかん》に身を倚《よ》せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
 そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上《あが》って来た。
「どうもお待遠さま」
 津田の膳《ぜん》には二個の鶏卵《けいらん》と一合のソップと麺麭《パン》がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
 津田は床の上に腹這《はらばい》になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
 お延はすぐ肉匙《フォーク》の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止《よ》せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊《き》いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の
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