っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
 津田ははっきりした返事も与えずに室《へや》の中に這入《はい》った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹《つつ》まれた蒲団《ふとん》が、彼の安臥《あんが》を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地《ねずみじ》のネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を後《うしろ》から着せるつもりで、両手で襟《えり》の所を持ち上げたお延は、拍子抜《ひょうしぬ》けのした苦笑と共に、またそれを袖畳《そでだた》みにして床《とこ》の裾《すそ》の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
 彼女は傍《そば》にいる看護婦の方を向いて訊《き》いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支《さしつか》えないのでございます。お食事の方はただいま拵《こしら》えてこちらから持って参ります」
 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
 お延は躊躇《ちゅうちょ》した。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
 時計の葢《ふた》を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎《まないた》へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井《てんじょう》の上で、時計と睨《にら》めっ競《くら》でもするように、手術の時間を計っていたのである。
 津田は再び訊《き》いた。
「今から宅《うち》へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
 お延の返事はいつまで経《た》っても捗々《はかばか》しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟《しげき》を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開《あ》かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
 念を押したお延はすぐ後《あと》を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上《あが》りますからって」
「そうか」
 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつ
前へ 次へ
全373ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング