言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒《ぶどうしゅ》などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭《いや》であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直《じき》です」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際《てぎわ》が閃《ひら》めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
 切物《きれもの》の皿に当って鳴る音が時々した。鋏《はさみ》で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇《いかく》した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥《なまぐ》さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒《かゆ》い虫のようなものが、彼の身体《からだ》を不安にするために、気味悪く血管の中を這《は》い廻った。
 彼は大きな眼を開《あ》いて天井《てんじょう》を見た。その天井の上には綺麗《きれい》に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後《あと》で、医者はまた云った。
「瘢痕《はんこん》が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
 最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下《お》ろされた。

        四十三

 診察室を出るとき、後《うしろ》から随《つ》いて来た看護婦が彼に訊《き》いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――蒼《あお》い顔でもしているかね」
 自分自身に多少|懸念《けねん》のあった津田はこう云って訊《き》き返さなければならなかった。
 創口《きずぐち》にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他《ひと》が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段《はしごだん》を上《あが》る時には、割《さ》かれた肉とガーゼとが擦《こす》れ合《あ》ってざらざらするような心持がした。
 お延は階段の上に立
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