きましたからどうぞ」
 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹《いもと》の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山《ぎょうさん》過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手《にがて》であった。
 お延は中腰《ちゅうごし》のまま答えた。
「でも後《あと》でまた何か云われると、あたしが困るわ」
 強《し》いてとめる理由も見出《みいだ》し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
 お延は微《かす》かな声で階下《した》を憚《はば》かるような笑い方をした。しかし彼女の露《あら》わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽《こっけい》だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止《よ》すから」
 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。午《ひる》までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
 前後して階子段《はしごだん》を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。

        四十二

「リチネはお飲みでしたろうね」
 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊《き》いた。
「飲みましたが思ったほど効目《ききめ》がないようでした」
 昨日《きのう》の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤《げざい》から受けた影響は、ほとんど精神的
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