津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋《さむ》しくってたまらなくなったから、とうとう宅《うち》へ手紙を書き出したの」
 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得《なっとく》ができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒《ぶっそう》だからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって現《げん》に締まっていたじゃないか」
「時《とき》が昨夕《ゆうべ》締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉《まゆ》を動かして見せた。日中用のない潜《くぐ》り戸《ど》の※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》を、朝|外《はず》し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻《さっき》寝かしてやったわ」
 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜《くぐ》り戸《ど》の事をそのままにして寝た。

        三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜《ゆうべ》寝るまで全く予想していなかった不意の観物《みもの》によって驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟《あでやか》に盛粧《せいそう》したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起《ねおき》の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩《も》らした。
「今|御眼覚《おめざめ》?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡《てがら》をかけた大丸髷《おおまるまげ》と、派出《はで》な刺繍《ぬい》をした半襟《はんえり》の模様と、それからその真中にある化粧後《けしょうご》の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
 お延は平気なものであった。
「どうもし
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