と》へ入れる津田の眼を、皮肉に擽《くす》ぐったくした。
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜《よ》の往来は意外に更《ふ》けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁《ふち》をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入《は》いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然《はっきり》した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
彼の返事は少し曖昧《あいまい》であった。津田がそれを追究《ついきゅう》もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止《よ》したらいいじゃないか」
津田の言葉は誰にでも解り切った理窟《りくつ》なだけに、同情に飢《う》えていそうな相手の気分を残酷に射貫《いぬ》いたと一般であった。数歩の後《のち》、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋《さむ》しいよ」
津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床《かわどこ》の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭《はしぐい》の下で黒く消えて行く時、幽《かす》かに音を立てて、電車の通る相間《あいま》相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
彼の語気は癇走《かんばし》っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯《とし》さえ若くって身体《からだ》さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効《せいこう》できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋《ばつ》を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金《きん》さんの結婚する時困るだろう」
小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津
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