、作物に対する好悪《こうお》の念が作家にうつって行く。なおひろがって作家自身の好悪となり、結局道徳的の問題となる。それ故《ゆえ》当然作物からのみ得られべき感情が作家に及ぼして、しまいには justice という事がなくなって、贔負《ひいき》というものが出来る。芸人にはこの贔負が特に甚だしい。相撲《すもう》なんかそれです。私の友人に相撲のすきな人があるが、この人は勝った方がすきだと申します。この人なんか正義の人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事が出来ない。かく芸を離れて当人になってくるのは角力《すもう》か役者に多い。作物になるとさほどでもないようにも見える。
 これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。自己がなくなったら personal でなくなるのはあたり前であるが、その自己がなくなれば芸術は駄目である。
 あなた方に尊ぶことは、自己でなくして腕である。腕さえあれば能事《のうじ》了《おわ》れりというてもよい。工場では人間がいらないほどあっても、その人間は機械の一部分のようなものである。mechanical に働く、機械よりも巧妙に働く、腕が必要である。が、われわれの方は人間であるという事が大切な事で、社会上よりいうときは御互に社会の一員であるけれども、われわれの方は貴方がたに比べて人間という事が大事になる。
 ところがここに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家というものがそれである。この capitalist になると、腕も人間も大切でなく、唯|金《かね》が大切なのである。capitalist から金をとり上げればゼロである。何にも出来ない。同様にあなた方から腕をとり上げても駄目である。われわれは腕も金もとり上げられてもいいが、人間をとり上げられてはそれこそ大変である。
 あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もない。しかし私どもの方には矛盾がある。即ちごまかしがきくのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑ったり、腹も立たないのに怒ったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとしたりするので――これは或《ある》程度まで成功します。これは一種の art である。art と人間の間には距離を生じて矛盾を生じやすい。あなた方にも人格にない art を弄《ろう》している事がたくさんある。即ちねむいのに、睡くないようなふりをするなどはその一例です。かく art は恐ろしい。われわれにとっては art は二の次《つぎ》で、人格が第一なのです。孔子様《こうしさま》でなければ人格がない、なんていうのじゃない。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心として考えるということである。
 一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
 この見地より世の中を見わたせば面白いものです。こういうのは私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。尤《もっと》も私は親が生んだので、親はまたその親が生んだのですから、私は唯一人でぽつりと木の股《また》から生れた訳ではない。そこでこういう問題が出て来る。人間は自分を通じて先祖を後世《こうせい》に伝える方便として生きているのか、または自分その者を後世に伝えるために生きているのか。これはどっちでもいい事ですけれども、とりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きているともとれるし、そうでなくて己《おのれ》は自分が生きているんで、親はこの己を生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えても差支《さしつかえ》ない。この論法からいうと、芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識《ふけんしき》ではあるが、やっぱり必要でしょう。ことに旧《きゅう》芝居や御能《おのう》なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信《かのうもとのぶ》のために生きているので、決して私のためには生きているのではないと看板をかける人もたくさんある。こういうのは身を殺して仁《じん》をなすというものでしょう。しかし personality の論法で行くと、これは問題にならない。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう。即ち personality から出立《しゅったつ》しようとする、狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする事にしたらどうだろう。世の中には全く同じ事は決して再び起らない。science ではどうだか知らないけれども、精神界では全く同じものが二つは来ない。故にいくら旧様《きゅうよう》を守ろう
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