すぐ、そこでする。小さい杵《きね》をわざと臼《うす》へあてて、拍子《ひょうし》を取って餅を搗《つ》いている。粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。ただ餅を搗く音だけする。
 自分はあるたけの視力で鏡の角《かど》を覗《のぞ》き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い眉毛《まみえ》の濃い大柄《おおがら》な女で、髪を銀杏返《いちょうがえ》しに結《ゆ》って、黒繻子《くろじゅす》の半襟《はんえり》のかかった素袷《すあわせ》で、立膝《たてひざ》のまま、札《さつ》の勘定《かんじょう》をしている。札は十円札らしい。女は長い睫《まつげ》を伏せて薄い唇《くちびる》を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。膝《ひざ》の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
 自分は茫然《ぼうぜん》としてこの女の顔と十円札を見つめていた。すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子《ちょうばごうし》の方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
 代《だい》を払って表へ出ると、門口《かどぐち》の左側に、小判《こばん》なりの桶《おけ》が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入《ふいり》の金魚や、痩《や》せた金魚や、肥《ふと》った金魚がたくさん入れてあった。そうして金魚売がその後《うしろ》にいた。金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖《ほおづえ》を突いて、じっとしている。騒がしい往来《おうらい》の活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。

     第九夜

 世の中が何となくざわつき始めた。今にも戦争《いくさ》が起りそうに見える。焼け出された裸馬《はだかうま》が、夜昼となく、屋敷の周囲《まわり》を暴《あ》れ廻《まわ》ると、それを夜昼となく足軽共《あしがるども》が犇《ひしめ》きながら追《おっ》かけているような心持がする。それでいて家のうちは森《しん》として静かである。
 家には若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中であった。床《とこ》の上で草鞋《わらじ》を穿《は》いて、黒い頭巾《ずきん》を被《かぶ》って、勝手口から出て行った。その時母の持っていた雪洞《ぼんぼり》の灯《ひ》が暗い闇《やみ》に細長く射して、生垣《いけがき》の手前にある古い檜《ひのき》を照らした。
 父はそれきり帰って来なかった。母は毎日三つになる子供に「御父様は」と聞いている。子供は何とも云わなかった。しばらくしてから「あっち」と答えるようになった。母が「いつ御帰り」と聞いてもやはり「あっち」と答えて笑っていた。その時は母も笑った。そうして「今に御帰り」と云う言葉を何遍となく繰返して教えた。けれども子供は「今に」だけを覚えたのみである。時々は「御父様はどこ」と聞かれて「今に」と答える事もあった。
 夜になって、四隣《あたり》が静まると、母は帯を締《し》め直して、鮫鞘《さめざや》の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負《しょ》って、そっと潜《くぐ》りから出て行く。母はいつでも草履《ぞうり》を穿いていた。子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。
 土塀《つちべい》の続いている屋敷町を西へ下《くだ》って、だらだら坂を降《お》り尽《つ》くすと、大きな銀杏《いちょう》がある。この銀杏を目標《めじるし》に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。片側は田圃《たんぼ》で、片側は熊笹《くまざさ》ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立《こだち》になる。それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝殿の階段の下に出る。鼠色《ねずみいろ》に洗い出された賽銭箱《さいせんばこ》の上に、大きな鈴の紐《ひも》がぶら下がって昼間見ると、その鈴の傍《そば》に八幡宮《はちまんぐう》と云う額が懸《かか》っている。八の字が、鳩《はと》が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。そのほかにもいろいろの額がある。たいていは家中《かちゅう》のものの射抜いた金的《きんてき》を、射抜いたものの名前に添えたのが多い。たまには太刀《たち》を納めたのもある。
 鳥居を潜《くぐ》ると杉の梢《こずえ》でいつでも梟《ふくろう》が鳴いている。そうして、冷飯草履《ひやめしぞうり》の音がぴちゃぴちゃする。それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手《かしわで》を打つ。たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。母の考えでは、夫が侍《さむらい》であるから、弓矢の神の八幡《はちまん》へ、こうやって是非ない願《がん》をかけたら、よもや聴《き》かれぬ道理はなかろうと一図《いちず》に思いつめている。
 子供はよくこの鈴の音で眼を覚《さ》まして、四辺《あたり》を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると旨《うま》く泣《な》きやむ事もある。またますます烈《はげ》しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。
 一通《ひととお》り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺《ず》りおろすように、背中から前へ廻して、両手に抱《だ》きながら拝殿を上《のぼ》って行って、「好い子だから、少しの間《ま》、待っておいでよ」ときっと自分の頬を子供の頬へ擦《す》りつける。そうして細帯を長くして、子供を縛《しば》っておいて、その片端を拝殿の欄干《らんかん》に括《くく》りつける。それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度《おひゃくど》を踏む。
 拝殿に括《くく》りつけられた子は、暗闇《くらやみ》の中で、細帯の丈《たけ》のゆるす限り、広縁の上を這《は》い廻っている。そう云う時は母にとって、はなはだ楽《らく》な夜である。けれども縛《しば》った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。御百度の足が非常に早くなる。大変息が切れる。仕方のない時は、中途で拝殿へ上《あが》って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
 こう云う風に、幾晩となく母が気を揉《も》んで、夜《よ》の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士《ろうし》のために殺されていたのである。
 こんな悲《かなし》い話を、夢の中で母から聞いた。

     第十夜

 庄太郎が女に攫《さら》われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就《つ》いていると云って健《けん》さんが知らせに来た。
 庄太郎は町内一の好男子《こうだんし》で、至極《しごく》善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を被《かぶ》って、夕方になると水菓子屋《みずがしや》の店先へ腰をかけて、往来《おうらい》の女の顔を眺めている。そうしてしきりに感心している。そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
 あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。水菓子にはいろいろある。水蜜桃《すいみつとう》や、林檎《りんご》や、枇杷《びわ》や、バナナを綺麗《きれい》に籠《かご》に盛って、すぐ見舞物《みやげもの》に持って行けるように二列に並べてある。庄太郎はこの籠を見ては綺麗《きれい》だと云っている。商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
 この色がいいと云って、夏蜜柑《なつみかん》などを品評する事もある。けれども、かつて銭《ぜに》を出して水菓子を買った事がない。ただでは無論食わない。色ばかり賞《ほ》めている。
 ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。身分のある人と見えて立派な服装をしている。その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。そこで大事なパナマの帽子を脱《と》って丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をしたら、女は籠詰《かごづめ》の一番大きいのを指《さ》して、これを下さいと云うんで、庄太郎はすぐその籠を取って渡した。すると女はそれをちょっと提《さ》げて見て、大変重い事と云った。
 庄太郎は元来|閑人《ひまじん》の上に、すこぶる気作《きさく》な男だから、ではお宅まで持って参りましょうと云って、女といっしょに水菓子屋を出た。それぎり帰って来なかった。
 いかな庄太郎でも、あんまり呑気《のんき》過ぎる。只事《ただごと》じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
 何でもよほど長い電車に違いない。庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生《は》えていた。女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁《きりぎし》の天辺《てっぺん》へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗《のぞ》いて見ると、切岸《きりぎし》は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚《ぶた》に舐《な》められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌《だいきらい》だった。けれども命には易《か》えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹《びんろうじゅ》の洋杖《ステッキ》で、豚の鼻頭《はなづら》を打《ぶ》った。豚はぐうと云いながら、ころりと引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一《ひ》と息接《いきつ》いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦《す》りつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてまた真逆様《まっさかさま》に穴の底へ転《ころ》げ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥《はるか》の青草原の尽きる辺《あたり》から幾万匹か数え切れぬ豚が、群《むれ》をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸《めが》けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心《しん》から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧《ていねい》に檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触《さわ》りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗《のぞ》いて見ると底の見えない絶壁を、逆《さか》さになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖《こわ》くなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生《は》えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵《むじんぞう》に鼻を鳴らしてくる。
 庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日《なのか》六晩叩《むばんたた》いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻《こんにゃく》のように弱って、しまいに豚に舐《な》められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
 健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善《よ》くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
 庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。



底本:「夏目漱石全集10巻」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏
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