る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言《ひとりごと》のように云っている。
「何が」と際《きわ》どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲《あざ》けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然《はっきり》とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩《も》らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
 雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ這入《はい》っていた。一間《いっけん》ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「御父《おとっ》さん、その杉の根の
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