か出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜《くや》しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思《おもい》に身を巨巌《おおいわ》の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕《くだ》いてしまいたくなる。
それでも我慢してじっと坐っていた。堪《た》えがたいほど切ないものを胸に盛《い》れて忍んでいた。その切ないものが身体《からだ》中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦《あせ》るけれども、どこも一面に塞《ふさ》がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
そのうちに頭が変になった。行灯《あんどう》も蕪村《ぶそん》の画《え》も、畳も、違棚《ちがいだな》も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無《む》はちっとも現前《げんぜん》しない。ただ好加減《いいかげん》に坐っていたようである。ところへ忽然《こつぜん》隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。
第三夜
こんな夢を見た。
六つになる子供を負《おぶ》ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰《つぶ》れて、青坊主《あおぼうず》になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人《おとな》である。しかも対等《たいとう》だ。
左右は青田《あおた》である。路《みち》は細い。鷺《さぎ》の影が時々闇《やみ》に差す。
「田圃《たんぼ》へかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を後《うし》ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺《さぎ》が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
自分は我子ながら少し怖《こわ》くなった。こんなものを背負《しょ》っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣《うっち》ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端《とたん》に、背中で、
「ふふん」と云う声がした。
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。ただ
「御父《おとっ》さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
自分は黙って森を目標《めじるし》にあるいて行った。田の中の路が不規則にうね
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