斜《はす》に自分の方へ向いて青い茎《くき》が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺《ゆら》ぐ茎《くき》の頂《いただき》に、心持首を傾《かたぶ》けていた細長い一輪の蕾《つぼみ》が、ふっくらと弁《はなびら》を開いた。真白な百合《ゆり》が鼻の先で骨に徹《こた》えるほど匂った。そこへ遥《はるか》の上から、ぽたりと露《つゆ》が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴《したた》る、白い花弁《はなびら》に接吻《せっぷん》した。自分が百合から顔を離す拍子《ひょうし》に思わず、遠い空を見たら、暁《あかつき》の星がたった一つ瞬《またた》いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

     第二夜

 こんな夢を見た。
 和尚《おしょう》の室を退《さ》がって、廊下《ろうか》伝《づた》いに自分の部屋へ帰ると行灯《あんどう》がぼんやり点《とも》っている。片膝《かたひざ》を座蒲団《ざぶとん》の上に突いて、灯心を掻《か》き立てたとき、花のような丁子《ちょうじ》がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。
 襖《ふすま》の画《え》は蕪村《ぶそん》の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近《おちこち》とかいて、寒《さ》むそうな漁夫が笠《かさ》を傾《かたぶ》けて土手の上を通る。床《とこ》には海中文殊《かいちゅうもんじゅ》の軸《じく》が懸《かか》っている。焚《た》き残した線香が暗い方でいまだに臭《にお》っている。広い寺だから森閑《しんかん》として、人気《ひとけ》がない。黒い天井《てんじょう》に差す丸行灯《まるあんどう》の丸い影が、仰向《あおむ》く途端《とたん》に生きてるように見えた。
 立膝《たてひざ》をしたまま、左の手で座蒲団《ざぶとん》を捲《めく》って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直《なお》して、その上にどっかり坐《すわ》った。
 お前は侍《さむらい》である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚《おしょう》が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑《くず》じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜《くや》しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向《むこう》をむいた
前へ 次へ
全21ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング