は人がいなかった。窓の外を通る往来《おうらい》の人の腰から上がよく見えた。
庄太郎が女を連れて通る。庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被《かぶ》っている。女もいつの間に拵《こし》らえたものやら。ちょっと解らない。双方とも得意のようであった。よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
豆腐屋《とうふや》が喇叭《らっぱ》を吹いて通った。喇叭を口へあてがっているんで、頬《ほっ》ぺたが蜂《はち》に螫《さ》されたように膨《ふく》れていた。膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。生涯《しょうがい》蜂に螫されているように思う。
芸者が出た。まだ御化粧《おつくり》をしていない。島田の根が緩《ゆる》んで、何だか頭に締《しま》りがない。顔も寝ぼけている。色沢《いろつや》が気の毒なほど悪い。それで御辞儀《おじぎ》をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
すると白い着物を着た大きな男が、自分の後《うし》ろへ来て、鋏《はさみ》と櫛《くし》を持って自分の頭を眺め出した。自分は薄い髭《ひげ》を捩《ひね》って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。白い男は、何《な》にも云わずに、手に持った琥珀色《こはくいろ》の櫛《くし》で軽く自分の頭を叩《たた》いた。
「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と自分は白い男に聞いた。白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。すると白い男が、こう云った。
「旦那《だんな》は表の金魚売を御覧なすったか」
自分は見ないと云った。白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。すると突然大きな声で危険《あぶねえ》と云ったものがある。はっと眼を開けると、白い男の袖《そで》の下に自転車の輪が見えた。人力の梶棒《かじぼう》が見えた。と思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。自転車と人力車はまるで見えなくなった。鋏の音がちゃきちゃきする。
やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈《か》り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。粟餅《あわもち》や、餅やあ、餅や、と云う声が
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