かと尋ねた。自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。するとその異人が金牛宮《きんぎゅうきゅう》の頂《いただき》にある七星《しちせい》の話をして聞かせた。そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた。
或時サローンに這入《はい》ったら派手《はで》な衣裳《いしょう》を着た若い女が向うむきになって、洋琴《ピアノ》を弾《ひ》いていた。その傍《そば》に背の高い立派な男が立って、唱歌を唄《うた》っている。その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外の事にはまるで頓着《とんじゃく》していない様子であった。船に乗っている事さえ忘れているようであった。
自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板《かんぱん》を離れて、船と縁が切れたその刹那《せつな》に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭《いや》でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕《つか》まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮《ちぢ》めても近づいて来る。水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い煙《けぶり》を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱《いだ》いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
第八夜
床屋の敷居を跨《また》いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開《あ》いて、残る二方に鏡が懸《かか》っている。鏡の数を勘定《かんじょう》したら六つあった。
自分はその一つの前へ来て腰をおろした。すると御尻《おしり》がぶくりと云った。よほど坐り心地《ごこち》が好くできた椅子である。鏡には自分の顔が立派に映った。顔の後《うしろ》には窓が見えた。それから帳場格子《ちょうばごうし》が斜《はす》に見えた。格子の中に
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