ない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を樹《き》の枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。それがもし二人集まれば鳴《な》き競《くらべ》をするからね。ああ実に風雅なものだよ。としきりに支那人を賞《ほ》めている。余はポッケットからゼムを出して呑《の》んだ。

        十

 政樹公《まさきこう》が大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。政樹公には十年|前《ぜん》上海《シャンハイ》で出逢《であ》ったきりである。その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。
 政樹公の姓は立花《たちばな》と云って柳川藩《やながわはん》だから、立派な御侍《おさむらい》に違ない。それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。しかも双方共寄宿舎に這入《はい》っていたものだから、立花君や立花さんでは紛《まぎ》れやすくていけない。で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎《せんざぶろう》という俗称だから銑《せん》さん銑さんと云った。なぜ片っ方が公《こう》なのに、片っ方はさん[#「さん」に傍点]づけにされてしまったのか、ちょっと分らない。銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹《かか》って、帰り路に香港《ホンコン》で死んでしまった。そこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。やっぱり中村とも総裁とも云わないで是公《ぜこう》と云《い》い馴《な》れたようなものだろう。
 ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は先刻《さっき》具合が悪いとかで家《うち》へ帰った後であった。こっちの都合もあるし、所労《しょろう》の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった。広い階子段《はしごだん》を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、取付《とっつき》が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていた。それに一々紹介された。その中《うち》で昔見た田中君の顔を覚えていた。どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで焼迹《やけあと》のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵《こしら》える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。
 しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき午《ひる》になった。さあ飯を食おうと、食堂へ案内された。ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。この人数《にんず》から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。
 料理は大和《やまと》ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。胃が痛いので肉刀《ナイフ》と肉匙《フォーク》は人並《ひとなみ》に動かしたようなものの、その実《じつ》は肉も野菜も咽喉《のど》の奥へ詰め込んだ姿である。一つどうですと向う側の田中君から瓢箪形《ひょうたんがた》の西洋梨《せいようなし》を勧《すすめ》られた時は、手を出す勇気すらなかった。

        十一

 河村調査課長の前へ行って挨拶《あいさつ》をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀《ていねい》に聞かれる。何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢《あ》った時は実は弱った。先刻《さっき》重役室へ河村さんが這入《はい》って来たとき、是公《ぜこう》が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが本《もと》で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その実《じつ》世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目《まじめ》に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷《まご》ついてしまう。そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。固《もと》より内心に確乎《かっこ》たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式《あかげっとしき》に縹緲《ひょうびょう》とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田《たんでん》に膠着《こうちゃく》しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を欺《だま》し終《おお》せて知らん顔をしているのは善《よ》くない事だから、ここで全く懺悔《ざんげ》してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体《からだ》に活気を漲《みな》ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸《いっすん》もあがきが取れなかったのである。
 そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を開《あ》けないうちに、早速|一工夫《ひとくふう》してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう詳《くわし》い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧《じゅうらん》すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。
 河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執《と》ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。見ると股野義郎《またのよしろう》である。昔「猫」を書いた時、その中に筑後《ちくご》の国は久留米《くるめ》の住人に、多々羅三平《たたらさんぺい》という畸人《きじん》がいると吹聴《ふいちょう》した事がある。当時股野は三池《みいけ》の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を捕《つか》まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく削除《さくじょ》しては、全巻を改板《かいはん》する事になるから、簡潔|明瞭《めいりょう》に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後《ちくご》久留米《くるめ》の住人だからである。幸い、肥前《ひぜん》唐津《からつ》に多々羅《たたら》の浜《はま》と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。今でも「猫」を御読みになれば分る。肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。
 こう云う訳で余と因縁《いんねん》の浅からざる股野に、ここでひょっくり出逢《であ》うとは全く思いがけなかった。しかも、その家へ呼ばれて御馳走《ごちそう》になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、昔日《せきじつ》の紛議《ふんぎ》を忘れて、旧歓《きゅうかん》を暖める事ができたのは望外《ぼうがい》の仕合《しあわせ》である。実を云うと、余は股野がまだ撫順《ぶじゅん》にいる事とばかり思っていた。
 余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、表《ひょう》のような形に拵《こしら》えて貰《もら》った。

        十二

 腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を撲《う》つ雨の音がしだいに繁《しげ》くなった。これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、歌麿《うたまろ》の美人が好い色に印刷されている。一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ頭《がしら》が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺《うかが》えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。眼が覚《さ》めたら雨はいつの間にか歇《や》んで、奇麗《きれい》な空が磨き上げたように一色《ひといろ》に広く見える中に、明かな月が出ていた。余は硝子越《ガラスごし》にこの大きな色を覗《のぞ》いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。
 後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官《アメリカしかん》と共に倶楽部《クラブ》のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛《さかん》であったとか、口々に賛辞を呈《てい》したものだから、是公はやむをえず、大声《たいせい》を振り絞《しぼ》って gentlemen《ゼントルメン》! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉《と》じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は固《もと》よりゼントルメンの後《あと》を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言《ひとこと》も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換《くらがえ》をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴《どな》った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人《アメリカじん》に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上《どうあげ》にしたそうである。
 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着《ひづき》日帰《ひがえ》りの遠足をやった事がある。赤毛布《あかげっと》を背負《しょ》って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側《がわ》まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布《けっと》に包《くる》まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚《さ》めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。
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