げて、この老人と別れた。
 表へ出るとアカシヤの葉が朗《ほが》らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。ホテルへ帰って行くのだろう。馬の蹄《ひづめ》は玄関の前で留まったらしい。是公の家の屋根から突出《つきだ》した細長い塔が、瑠璃色《るりいろ》の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋《はつあき》が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝《きら》つかせていた。

        七

 この間から米国の艦隊が四|艘《そう》来ているんで、毎日いろいろな事をして遊ばせるのだが、翌日《あす》の晩は舞踏会をやるはずになっているから出て見ろと是公《ぜこう》が勧めた。出て見ろったって、燕尾服《えんびふく》も何も持って来やしないから駄目《だめ》だよと断ると、是公が希知《けち》な奴《やつ》だなと云った。燕尾服は其上|倫敦《ロンドン》留学中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、もっとも安い奴を拵《こしら》えた覚《おぼえ》があるが、爾来《じらい》箪笥《たんす》の底に深く蔵しているのみで、親友といえども、持ってるか持ってないか知らないくらいである。いくら大連がハイカラだって、東京を立つ時に、この古燕尾服が役に立とうとは思いがけないから、やっぱり箪笥の底にしまったなりで出て来た。じゃ、おれの袴《はかま》羽織《はおり》を貸してやるから、日本服で出ろ、出て、まあ、どんな容子《ようす》だか見るが好いと、是公は何でも引《ひ》き摺《ず》り出そうとする。いっそ出るくらいなら踊らなくっちゃつまらないから、日本服ならまあ止《よ》そうと云いたかったが、是公は正直だから本当にすると好くないと思って、ただ羽織袴はいけないよと断った。是公はそれでも舞踏会を見せる気と見えて、翌日《あくるひ》の午《ひる》、社の二階で上田君を捕《つらま》えて、君の燕尾服をこいつに貸してやらないか、君のならちょうど合いそうだと云っていた。上田君もこの突然な相談には辟易《へきえき》したに違ない。笑いながら、いえ私のは誰にも合いませんと謙遜《けんそん》された。
 舞踏会はそれですんだが、しばらくすると、今度はこれから倶楽部《クラブ》に連れて行ってやろうと、例のごとく連れて行ってやろうを出し始めた。だいぶ遅いようだとは思ったが、座にある国沢君も、行こうと云われるので、三人で涼しい夜の電灯の下《もと》に出た。広い通りを一二丁来ると日本橋《にほんばし》である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、雅《が》にも丈夫《じょうぶ》にもできている。三人は橋の手前にある一棟《ひとむね》の煉瓦造《れんがづく》りに這入《はい》った。誰かいるかなと、玉突場を覗《のぞ》いたが、ただ電灯が明るく点《つ》いているだけで玉の鳴る音はしなかった。読書室へ這入ったが、西洋の雑誌が、秩序よく列《なら》べてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかった。将棋|歌留多《かるた》をやる所へ這入って腰をかけて見たが、三人の尻をおろしたほかは、椅子《いす》も洋卓《テーブル》もことごとく空《あ》いていた。今日は遅いので西洋人がいないからつまらないと是公が云う。是公の会話の下手な事は天品《てんぴん》と云うくらいなものだから、不思議に思って、御前は平生ここに出入《でいり》して赤髯《あかひげ》と交際するのかと聞いたら、まあ来た事はないなと澄ましている。それじゃ西洋人がいなくってつまらないどころか、いなくって仕合せなくらいなものだろうと聞いて見ると、それでもおれはこの倶楽部《クラブ》の会長だよ、出席しないでも好いと云う条件で会長になったんだと呑気《のんき》な説明をした。
 会員の名札はなるほど外国流の綴《つづり》が多い。国沢君は大きな本を拡《ひろ》げて、余の姓名を書き込ました上、是公に君ここへと催促した。是公はよろしいと答えて、自分の名の前に proposed by と付けた。それへ国沢君が、同《おなじ》く seconded by と加えてくれたので、大連滞在中はいつでも、倶楽部《クラブ》に出入《しゅつにゅう》する資格ができた。
 それから三人でバーへ行った。バーは支那人がやっている。英語だか支那語だか日本語だか分らない言葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。酔って外へ出ると濃い空がますます濃く澄み渡って、見た事のない深い高さの裡《うち》に星の光を認めた。国沢君がわざわざホテルの玄関まで送られた。玄関を入ると、正面の時計がちょうど十二時を打った。国沢君はこの十二時を聞きながら、では御休みなさいと云って、戻られた。

        八

 ホテルの玄関で、是公《ぜこう》が馬車をと云うと、ブローアムに致しますかと給仕が聞いた。いや開《ひら》いた奴が好いと命じている。余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が透《す》き徹《とお》って、路《みち》も樹《き》も屋根も煉瓦《れんが》も、それぞれ鮮《あざ》やかに眸《ひとみ》の中に浮き出した。
 やがて蹄《ひづめ》の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの麗《うらら》かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる。馬車は市街の中へ這入《はい》らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、遥向《はるかむこ》うの岡《おか》の上に高いオベリスクが、白い剣《つるぎ》のように切っ立って、青空に聳《そび》えている。その奥に同じく白い色の大きな棟《むね》が見える。屋根は鈍《にぶ》い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には奇麗《きれい》な橋がかかっていた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の位地《いち》と関係と恰好《かっこう》とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。
 あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵《こしら》えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々|危《あや》しくなって来た。よくよく糺明《きゅうめい》して見ると、実は今月末《こんげつすえ》とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。
 そのうち馬車が、電車の軌道《レール》を敷いている所へ出た。電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている。御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で稽古《けいこ》している最中なのだから、軌道《レール》がここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、鉄軌《レール》の据《す》え方《かた》が少々違うようである。第一内地のように石を敷かない計画らしい。御影石《みかげいし》が払底《ふってい》なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の敷方《しきかた》なんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって……とあたかも自分が技師であるかのごとき自慢である。内地から来たものはなるほど田舎《いなか》もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った。内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。
 馬車が岡の上へ出た。そこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の黄土《こうど》が、見るうちに靴の先から洋袴《ズボン》の膝《ひざ》の上まで細かに積もった。この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた。

        九

 これが豆油《まめあぶら》の精製しない方で、こっちが精製した方です。色が違うばかりじゃない、香《におい》も少し変っています。嗅《か》いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いで見た。
 用いる途《みち》ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。第一大変安いのです。これでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。そうして効用は両方共ほぼ同じです。その点から見てもはなはだ重宝《ちょうほう》です。それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです。動物性と同じくらいに消化《こな》れますと云われたので急に豆油がありがたくなった。やはり天麩羅《てんぷら》などにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た。
 出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、石鹸《シャボン》が三つ並んでいた。これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていた。すると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって葢《ふた》をした。
 柞蚕《さくさん》から取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。こっちは精製した方でと、傍《そば》に出されると全く白い。かつ節《ふし》なしにでき上っている。これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答である。しかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、羽二重《はぶたえ》のようなものができるつもりですと云う。その上|価段《ねだん》が半分だと云う。柞蚕《さくさん》から羽二重《はぶたえ》が織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ善《よ》かろう。
 高粱酒《こうりょうしゅ》を出して洋盃《コップ》に注《つ》ぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断った。さすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、この間|高峯譲吉《たかみねじょうきち》さんが来て、高粱からウィスキーを採《と》るとか採らないとかしきりに研究していたそうである。ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。
 陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった。
 中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ上《のぼ》ったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来た。その上胃がしきりに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に免《めん》じて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ椅子《いす》の上へ腰をかけてしまった。是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。何でもこの家だけは会社から寄附してやった。これでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に這入《はい》った。
 そこへ汚《きた》ない支那人が二三人、奇麗《きれい》な鳥籠《とりかご》を提《さ》げてやって来た。支那人て奴《やつ》は風雅《ふうが》なものだよ。着るものも
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