姿を隠した。この支那人は肩から背へかけて長い鉄砲を釣っていた。人数《にんず》は二人であった。始めて気がついたときは咄嗟《とっさ》の際に馬賊という聯想《れんそう》が起った。橋本と前後して高粱の底に没して、しばらくすると、どんと云う砲声が聞えて、またしばらくすると、三人の馬の前にどこからかあの背の高い奴が現われて来たら大事件だと想像して、また室《へや》の中へ帰って狸《たぬき》の皮の上に寝た。

        四十四

 手拭《てぬぐい》を下げて風呂に行く。一町ばかり原の中を歩かなければならない。四方を石で畳上《たたみあ》げた中へ段々を三つほど床《ゆか》から下へ降りると湯泉《ゆ》に足が届く。軍政時代に軍人が建てたものだからかなり立派にできている代りにすこぶる殺風景《さっぷうけい》である。入浴時間は十五分を超《こ》ゆべからずなどと云う布告《ふこく》めいたものがまだ入口に貼付けてある通りの構造である。犯則を承知の上で、石段に腰をかけたり、腹這《はらばい》に身を浮かしたり、頬杖を突いて倚《よ》りかかったり、いろいろの工夫を尽くした上、表へ出て風呂場の後へ廻ると、大きな池があった。若い男が破舟《やれぶね》の中へ這入《はい》ってしきりに竿《さお》を動かしている。おいこの池は湯か水かと聞くと、若い男は類稀《たぐいまれ》なる仏頂面《ぶっちょうづら》をして湯だと答えた。あまり厭《いや》な奴だから、それぎり口を利《き》くのをやめにした。岸の上から底を覗《のぞ》くと、時々泡のようなものが浮いて来る。少しは湯気が立ってるかとも思われる。実は魚がいないかと、念のため聞いて見たかったのだけれども、相手が相手だから歩を回《めぐ》らして宿の方へ帰った。後で、この池に魚が泳いでいる由を承知してはなはだ奇異の思いをなした。その上ここには水が一滴も出ないのだと教えられたときには全く驚いた。
 驚いた事はまだある。湯から帰りがけに入口の大広間を通り抜けて、自分の室《へや》へ行こうとすると、そこに見慣れない女がいた。どこから来たものか分らないが、紫《むらさき》の袴《はかま》を穿《は》いて、深い靴を鳴らして、その辺を往ったり来たりする様子が、どうしても学校の教師か、女生徒である。東京でこそ外へさえ出れば、向うから眼の中へ飛び込んでくる図だが、渺茫《びょうぼう》たる草原《くさはら》のいずくを物色したって、斯様《かよう》な文采《ぶんさい》は眸《ひとみ》に落ちるべきはずでない。余はむしろ怪しい趣《おもむき》をもって、この女の姿をしばらく見つめていた。
 室に帰ってまた寝た。眼が覚《さ》めると窓の外で虫の声がする。淋《さび》しくなったから、西洋間へ出て、長椅子の上に腰をかけて、謡《うたい》をうたった。無論|出鱈目《でたらめ》である。そこへ下女が来た。先刻《さっき》の女の事を聞いたら、何でも宅《うち》で知ってる人なんでしょうと云っただけで、ちっとも要領を得ない。昨夕《ゆうべ》飯を済まして煙草《たばこ》を呑《の》んでいると急に広間の方で、オルガンを弾《ひ》く音がしたが、あの女がやったんじゃないかと聞くと、いいえ昨夕のは宅の下女ですと云う。この原のなかに、それほどハイカラな下女がいようとは思いがけなかった。先刻の袴はもう帰ったそうである。
 余は一人長椅子の上に坐《すわ》った。そうして永い日が傾《かたむ》き尽して、原の色が寒く変るまでぽかんとしていた。すると静かな野の中でどうぞ、ちと御遊びに、私一人ですからと云う嬌《なまめ》かしい声がした。その音調は全くの東京ものである。余は突然立って、窓の外を眺めた。あいにく窓には寒冷紗《かんれいしゃ》が張ってあった。手早く硝子《ガラス》を開けて首を外へ出すと、外はもう一面に夕暮れていて、蒼《あお》い煙が女の姿を包んでしまったので誰だか分らなかった。
 橋本の連中はその晩帰って来た。下女のしらせで、暗い背戸《せど》に出て見ると、豆のような灯《ひ》が一つ遠くに見えた。下女はあれが連中だと云う。いくら野広《のびろ》いところだって、橋本以外にも灯が見える事もあるだろうと尋ねても、やっぱりあれだと云う。はたしてそうであった。灯は夕方宿から迎《むかえ》に出した支那人の持って行った提灯《ちょうちん》である。背戸口に馬を乗り捨てた橋本は、そう骨を折って見に行く所でもないよと云った。大重君は馬から三度落ちたそうである。

        四十五

 奉天へ行ったら満鉄公所《まんてつこうしょ》に泊《とま》るがいいと、立つ前に是公《ぜこう》が教えてくれた。満鉄公所には俳人|肋骨《ろっこつ》がいるはずだから、世話になっても構わないくらいのずるい腹は無論あったのだが、橋本がいっしょなので、多少遠慮した方が紳士だろうという事に相談がいつか一決してしまった。停車場《ステーション》には宿屋の馬車が迎えに来ていた。やはり泥の中から掘出して、炎天で乾かしたように色が変っている。荷物と人間をぐるに乗せて、構内を離れるや否や、御者《ぎょしゃ》が凄《すさま》じく鞭《むち》を鳴らした。峠《とうげ》を越す田舎《いなか》の乗合馬車よりも手荒な取扱方である。広い通りはそれほどでもないが、しだいに城内に近づくに従って、今まで野原同然に茫々《ぼうぼう》としていた往来《おうらい》が、左右の店の立込《たてこ》んで来ると共に狭くなる上に、鉄道馬車がその真中を駆けつつあるにもかかわらず、烈しい鞭の影は一分に一度ぐらいはきっと頭の上で閃《ひら》めいた。馬は無理にも急がなければならない。けれども奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ騾馬《らば》を六頭も着けた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに無人《むにん》の境《さかい》を行くがごとくに飛ばして見せる。我々のような平和を喜ぶ輩《ともがら》はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。御者はもちろんチャンチャンで、油に埃《ほこり》の食い込んだ辮髪《べんぱつ》を振り立てながら、時々満洲の声を出す。余は八の字を寄せて、馬の尻をすかしつつ眺めた。そうして、みだりに鞭を瘠《や》せ骨に加えて、旅客の御機嫌《ごきげん》を取るのは、女房を叱って佳賓《まろうど》をもてなすの類《たぐい》だと思った。
 現に北陵《ほくりょう》から帰りがけに、宿近く乗りつけると、左り側に人が黒山のようにたかっている。その辺は支那の豆腐やら、肉饅頭《にくまんじゅう》やら、豆素麺《まめそうめん》などを売る汚《きた》ない店の隙間《すきま》なく並んでいる所であったが、黒い頭の塊《かた》まった下を覗《のぞ》くと、六十ばかりの爺さんが大地に腰を据《す》えて、両脛《りょうずね》を折ったなり前の方へ出していた。その右の膝《ひざ》と足の甲の間を二寸ほど、強い力で刳《えぐ》り抜《ぬ》いたように、脛の肉が骨の上を滑《すべ》って、下の方まで行って、いっしょに縮《ちぢ》れ上っている。まるで柘榴《ざくろ》を潰《つぶ》して叩《たた》きつけた風に見えた。こう云う光景には慣れているべきはずの案内も、少し寒くなったと見えて、すぐに馬車を留めて、支那語で何か尋ね出した。余も分らないながら耳を立てて、何だ何だと繰返して聞いた。不思議な事に、黒くなって集った支那人はいずれも口も利《き》かずに老人の創《きず》を眺めている。動きもしないから至って静かなものである。なお感じたのは、地面の上に手を後《うしろ》へ突いて、創口《きずぐち》をみんなの前に曝《さら》している老人の顔に、何らの表情もない事であった。痛みも刻まれていない。苦しみも現れていない。と云って、別に平然ともしていない。気がついたのは、ただその眼である。老人は曇《どん》よりと地面の上を見ていた。
 馬車に引かれたのだそうですと案内が云った。医者はいないのかな、早く呼んでやったらいいだろうにと間接ながら窘《たし》なめたら、ええ今にどうかするでしょうという答である。この時案内はもう本来の気分を回復していたと見える。鞭《むち》の影は間もなくまた閃《ひら》めいた。埃《ほこり》だらけの御者《ぎょしゃ》は人にも車にも往来にも遠慮なく、滅法無頼《めっぽうぶらい》に馬を追った。帽も着物も黄色な粉《こ》を浴びて、宿の玄関へ下りた時は、ようやく残酷な支那人と縁を切ったような心持がして嬉《うれ》しかった。

        四十六

 支那の古家《ふるいえ》をそのまま使ってるから、御寺の本堂を客間に仕切ったと同じようである。釣り廊下を渡って正面の座敷を覗《のぞ》くと、骨董《こっとう》がいっぱい並べてあったので、何事かと思ったら、北京《ペキン》へ買出しに行った道具屋が、帰り途にここで逗留《とうりゅう》中の見世《みせ》を張ったのだと分ったから、冷し半分|這入《はい》って見ているうちに、時間が来たので、外へ出た。今度は車だから好かろうと安心して、ちょっとハイカラに膝頭《ひざがしら》を重ねて反《そ》り返《かえ》って見たが、やはりけっして無難ではない。人力は日本人の発明したものであるけれども、引子《ひきこ》が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。彼等はどうせ他《ひと》の拵《こしら》えたものだという料簡《りょうけん》で、毫《ごう》も人力に対して尊敬を払わない引き方をする。海城《かいじょう》というところで高麗《こま》の古跡《こせき》を見に行った時なぞは、尻が蒲団《ふとん》の上に落ちつく暇がないほど揺れた。一尺ばかり跳《は》ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあった。しまいに朝鮮人の頭をこきんと張つけてやりたくなったくらい残酷に取扱われた。奉天の道路は海城ほど凸凹《でこぼこ》にでき上っていないから、むやみに車の上で踊をおどる苦痛はないが、その引き方のいかにも無技巧で、ただ見境《みさかい》なく走《か》けさえすれば車夫の能事畢《のうじおわ》ると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。余は車に揺られながら、乗客《じょうかく》の神経に相応の注意を払わない車夫は、いかによく走《か》けたって、ついに成功しない車夫だと考えた。
 そのうち大きな門の下へ出た。奉天へ前後四泊した間に、この門を何度となく潜《くぐ》った覚《おぼえ》がある。その名前も幾度《いくたび》となく耳にした。ところがそれを忘れてしまった。その恰好《かっこう》もはなはだ曖昧《あいまい》に頭に映るだけである。しかし奉天の市街《まち》に入《い》って始めて埃《ほこり》だらけの屋根の上に、高くこの門を見上げた時は、はあと思った。その時の印象はいまだに消えない。橋本といっしょにこの門の傍《そば》にある小さな店に筆と墨を買いに行った折の事も、寂《さ》びた経験の一つとしてよく覚えている。その時橋本は敷居を跨《また》いで、中へ這入《はい》った。余も橋本に続こうとして身体を半分|廂《ひさし》から奥へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の臭《におい》が、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へ出て佇《たたず》んでいた。今云う門は十間ばかり先の四辻《よつつじ》にあるので、余は鳥打帽の廂に高い角度を与えてわざわざ仰《あお》むいて見た。時刻は暮に近い頃だったから、日の色は瓦《かわら》にも棟《むね》にも射さないで、眩《まぼ》しい局部もなく、総体が粛然《しゅくぜん》と喧《かま》びすしい十字の街《まち》の上に超越していた。この門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な采《あや》をいっこう具えていなかった。木も瓦も土もほぼ一色《ひといろ》に映る中に、風鈴《ふうりん》だけが器用に緑を吹いていただけである。瓦の崩《くず》れた間から長い草が見えた。廂の暗い影を掠《かす》めて白い鳩が二羽飛んだ。余は久しぶりに漢詩というものが作りたくなった。待っている間少し工夫して見たが、一句も纏《まと》まらないうちに、橋本が筆と墨を抱《かか》えて出て来たので興趣《きょうしゅ》は破れてしまった。
 このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、煉瓦《れんが》に封じ込められた塵埃《ちり
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