、自身と烈《はげ》しい胃病に罹《かか》って、急に苦しみ出した。それで普通ならば毎週十時間余も講義を持たせられるところを、わずか一時間に減らして貰って、その一時間が済むとすぐに薬を呑むそうだ。旅行中は君の病気である事を知りながら、無理に講演を勧めて大いに悪かった。何事も自分で経験しないうちは分らぬもので、こうして胃病に悩まされて始めて気がついたが、痛いときに演説などができる訳のものでは、けっしてない。君があの際|奮《ふる》って演壇に立ったのは実際感心である、と大いに褒《ほ》めたり詫《あや》まったりして来た。実際橋本の云う通りである。しかしはたして橋本の推察するほど胃が痛かったら、いかな余も、いくらせっかくだから君出るが好いよを繰返されたって、ついに講演を断ってしまったろう。
二十七
白仁《しらに》さんから正餐《せいさん》の御馳走《ごちそう》になったときは、民政部内の諸君がだいぶ見えた。みんな揃《そろ》ってカーキー色の制服を着ていた。食事が済んで別室へ戻って話していると佐藤が、あしたは朝のうち二百三高地《にひゃくさんこうち》の方を見たら好かろう、案内を出すからと云ってくれる。余も好かろうと答えた。すると、大した案内にも及ぶまいと笑いながら相談を掛けた。我々は一私人で、ただ遊覧に来たのだから、公《おおやけ》の職務を帯びている人を使ってはすまないが、せっかく案内をつけてくれると云うなら、小使でも何でも構わない。非番《ひばん》か閑散の人を一人世話してくれと頼んだ。これは正直恐れ入った本当の謙遜《けんそん》である。その時佐藤は懐中から自分の名刺を出して、端の方に鉛筆で何か書いて、じゃ明日《あした》の朝八時にこの人が来るから、来たらいっしょに行くが好いと云って分れた。
明日の朝の八時は例《いつも》の通り強い日が空にも山にも港にも一面に輝いていた。馬車を棄《す》てて山にかかったときなどは、その強い日の光が毛孔《けあな》から総身《そうしん》に浸込《しみこ》むように空気が澄徹《ちょうてつ》していた。相変らず樹《き》のない山で、山の上には日があるばかりだから、眼の向く所は、左右ともに、また前後ともに、どこまでも朗らかである。その明かな足元から、ばっと音がして、何物だか飛び出した。案内の市川君が鶉《うずら》ですと云ったので始めてそうかと気がついたくらい早く、鶉は眼を掠《かす》めて、空濶《くうかつ》の中《うち》に消えてしまった。その迹《あと》を見上げると、遥《はるか》なる大きい鏡である。
その時我々はもう頂《いただき》近くにいた。ここいらへも砲丸《たま》が飛んで来たんでしょうなと聞くと、ここでやられたものは、多く味方の砲丸自身のためです。それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを跳《は》ね返《かえ》したためです。こう云う傾斜のはなはだしい所ですから、いざと云う時に、すぐ遠くから駆《か》け寄せて敵を追《お》い退《の》ける訳に行きませんので、みんなこう云うところへ平たくなって噛《かじ》りついているのであります。そうして味方の砲丸が眼の前へ落ちて、一度に砂煙《すなけむり》が揚《あ》がるとその虚《きょ》に乗じて一間か二間ずつ這《は》い上がるのですから、勢い砂煙に交《まじ》る石のために身体中|創《きず》だらけになるのです。と市川君は詳しい説明を与えられた。
味方の砲弾《たま》でやられなければ、勝負のつかないような烈《はげ》しい戦《いくさ》は苛過《つらす》ぎると思いながら、天辺《てっぺん》まで上《のぼ》った。そこには道標《どうひょう》に似た御影《みかげ》の角柱《かくちゅう》が立っていた。その右を少しだらだらと降りたところが新《あらた》に土を掘返したごとく白茶《しらちゃ》けて見える。不思議な事にはところどころが黒ずんで色が変っている。これが石油を襤褸《ぼろ》に浸《し》み込《こ》まして、火を着けて、下から放《ほう》り抛《な》げたところですと、市川君はわざわざ崩《くず》れた土饅頭《どまんじゅう》の上まで降りて来た。その時|遥《はるか》下の方を見渡して、山やら、谷やら、畠《はたけ》やら、一々実地の地形について、当時の日本軍がどう云う径路《けいろ》をとって、ここへじりじり攻め寄せたかをついでながら物語られた。不幸にして、二百三高地の上までは来たようなものの、どっちが東でどっちが西か、方角がまるで分らない。ただ広々として、山の頭がいくつとなく起伏している一角に、藍色《あいいろ》の海が二カ処ほど平《ひら》たく見えるだけである。余はただ朗かな空の下に立って、市川君の指さす方《かた》を眺《なが》めていた。
自分でここへ攻め寄せて来た経験をもっている市川君の話は、はなはだ詳しいものであった。市川君の云うところによると、六月から十二月
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