ないから西洋間と日本間の唯一の主人として、この一日を物静かに休養すべく準備した。まず何よりも横になるのが薬だろうと思って、狸《たぬき》だか狐《きつね》だか分らない毛皮の上にごろりと転がった。すると窓の外から橋本の声で、おいおいちょっと出て見ろと呼んでいる。彼《か》れまだそこいらを迷《まご》ついてるなと思うと、少し面白くなったから、請求通《せいきゅうどおり》原の中へ草履《ぞうり》のまま出た。すると広い牧場のようなところに、馬が三匹立っていた。それがいずれも小汚《こぎた》ない駄馬《だうま》だったのではなはだ愉快であった。のみならず、その中《うち》の一匹がどうしても大重君を乗せようと云わない。傍《そば》へ行くと、飛んだり蹴《け》たりする。馬が怖《こわ》がるからだと云って、手拭《てぬぐい》で眼隠《めかく》しをして、支那の小僧が両手で轡《くつわ》をしっかり抑えている。遠くから見ると、馬が鉢巻《はちまき》をしたようでおかしかった。その傍へ大重君が苦笑いをしながら近寄って行くところは、一層面白かった。しかも一度や二度ではない。よほど馬に遠慮する性質《たち》と見えて、容易に埒《らち》を明けないから、みんながなお喝采《かっさい》する。橋本は北海道の住人だから苦《く》もなく鞍《くら》に跨《またが》った。もう一人――名前を忘れたから、もう一人というよりほかに仕方がないが――これは熊岳城《ゆうがくじょう》の苗圃《びょうほ》の長《ちょう》で、もと橋本に教わった事があると云うだけに、手綱を執《と》る術《すべ》を心得ている。余はこの時立ちながら心の中《うち》で、要するに千山行を撤回した方が、馬術家としての余の名誉を完《まっと》うする所以《ゆえん》ではなかろうかと考えた。
 けれども、そんな気色《けしき》は顔にも出さず、ただ残り惜しげに三人の後姿を眺めていた。そうして大重君の腰つきから推測して、千山まであれで乗り通すのは、定めて心配な事だろうと同情した。橋本は今夜のうちに帰るんだとか号して、しきりに馬を急がせるらしい。苗圃長も負けずに、続いて行く。独《ひと》り大重君だけが後《おく》れた。馬はまだ眼隠をしている。やがて二人の影が高粱《こうりょう》に遮《さえ》ぎられて、どっちへ向いて行くかちょっと分らなくなった。先刻《さっき》からそこいらを徘徊《はいかい》していた背の高い支那人もまた高粱の裡《うち》に姿を隠した。この支那人は肩から背へかけて長い鉄砲を釣っていた。人数《にんず》は二人であった。始めて気がついたときは咄嗟《とっさ》の際に馬賊という聯想《れんそう》が起った。橋本と前後して高粱の底に没して、しばらくすると、どんと云う砲声が聞えて、またしばらくすると、三人の馬の前にどこからかあの背の高い奴が現われて来たら大事件だと想像して、また室《へや》の中へ帰って狸《たぬき》の皮の上に寝た。

        四十四

 手拭《てぬぐい》を下げて風呂に行く。一町ばかり原の中を歩かなければならない。四方を石で畳上《たたみあ》げた中へ段々を三つほど床《ゆか》から下へ降りると湯泉《ゆ》に足が届く。軍政時代に軍人が建てたものだからかなり立派にできている代りにすこぶる殺風景《さっぷうけい》である。入浴時間は十五分を超《こ》ゆべからずなどと云う布告《ふこく》めいたものがまだ入口に貼付けてある通りの構造である。犯則を承知の上で、石段に腰をかけたり、腹這《はらばい》に身を浮かしたり、頬杖を突いて倚《よ》りかかったり、いろいろの工夫を尽くした上、表へ出て風呂場の後へ廻ると、大きな池があった。若い男が破舟《やれぶね》の中へ這入《はい》ってしきりに竿《さお》を動かしている。おいこの池は湯か水かと聞くと、若い男は類稀《たぐいまれ》なる仏頂面《ぶっちょうづら》をして湯だと答えた。あまり厭《いや》な奴だから、それぎり口を利《き》くのをやめにした。岸の上から底を覗《のぞ》くと、時々泡のようなものが浮いて来る。少しは湯気が立ってるかとも思われる。実は魚がいないかと、念のため聞いて見たかったのだけれども、相手が相手だから歩を回《めぐ》らして宿の方へ帰った。後で、この池に魚が泳いでいる由を承知してはなはだ奇異の思いをなした。その上ここには水が一滴も出ないのだと教えられたときには全く驚いた。
 驚いた事はまだある。湯から帰りがけに入口の大広間を通り抜けて、自分の室《へや》へ行こうとすると、そこに見慣れない女がいた。どこから来たものか分らないが、紫《むらさき》の袴《はかま》を穿《は》いて、深い靴を鳴らして、その辺を往ったり来たりする様子が、どうしても学校の教師か、女生徒である。東京でこそ外へさえ出れば、向うから眼の中へ飛び込んでくる図だが、渺茫《びょうぼう》たる草原《くさはら》のいずくを物色したって、斯様《か
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