に入って飯を食っていると、突然この顔に出食《でっく》わして一驚《いっきょう》を喫《きっ》した。固《もと》より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて這入《はい》って来たものと見える。もっとも彼の主人もその時食堂にいた。主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ脇《わき》の下に抱《かか》えて食堂の外に出て行った。その退却の模様はすこぶる優美であった。彼は重い犬をあたかも風呂敷包《ふろしきづつみ》のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず大股《おおまた》に歩んで戸の外に身体《からだ》を隠した。その時犬はわんとも云わなかった。ぐうとも云わなかった。あたかも弾力ある暖かい器械の、素直《すなお》に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、行状《ぎょうじょう》に至ってはすこぶる気高いものであった。余はその後《ご》ついにこの犬に逢う機会を得なかった。

        三

 退屈だから甲板《かんぱん》に出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも方《かた》のつかない天気の中《うち》に、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。しばらくその痕《あと》を眺めていたが、やがてまた籐椅子《といす》の上に腰をおろした。例の英吉利《イギリス》の男が、今日は犬を椅子《いす》の足に鎖で縛りつけて、長い脛《すね》をその上に延ばして書物を読んでいる。もう一人の異人はサルーンで何かしきりに認《したた》め物《もの》をしている。その妻君はどこへ行ったか見えない。亜米利加《アメリカ》の宣教師夫婦は席を船長室の傍《わき》へ移した。甲板の上はいつもの通り無事であった。ただ機関の音だけが足の裏へ響けるほど猛烈に鳴り渡った。その響の中でいつの間にかうとうとした。
 眼が覚《さ》めてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を引《ひ》っ剥《ぺ》がして見た。傍《そば》には日本の雑誌も五六冊片寄せてあった。いずれも佐治文庫《さじぶんこ》と云う判が押してある。これは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる。友人の畔柳芥舟《くろやなぎかいしゅう》と
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