城ほど凸凹《でこぼこ》にでき上っていないから、むやみに車の上で踊をおどる苦痛はないが、その引き方のいかにも無技巧で、ただ見境《みさかい》なく走《か》けさえすれば車夫の能事畢《のうじおわ》ると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。余は車に揺られながら、乗客《じょうかく》の神経に相応の注意を払わない車夫は、いかによく走《か》けたって、ついに成功しない車夫だと考えた。
 そのうち大きな門の下へ出た。奉天へ前後四泊した間に、この門を何度となく潜《くぐ》った覚《おぼえ》がある。その名前も幾度《いくたび》となく耳にした。ところがそれを忘れてしまった。その恰好《かっこう》もはなはだ曖昧《あいまい》に頭に映るだけである。しかし奉天の市街《まち》に入《い》って始めて埃《ほこり》だらけの屋根の上に、高くこの門を見上げた時は、はあと思った。その時の印象はいまだに消えない。橋本といっしょにこの門の傍《そば》にある小さな店に筆と墨を買いに行った折の事も、寂《さ》びた経験の一つとしてよく覚えている。その時橋本は敷居を跨《また》いで、中へ這入《はい》った。余も橋本に続こうとして身体を半分|廂《ひさし》から奥へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の臭《におい》が、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へ出て佇《たたず》んでいた。今云う門は十間ばかり先の四辻《よつつじ》にあるので、余は鳥打帽の廂に高い角度を与えてわざわざ仰《あお》むいて見た。時刻は暮に近い頃だったから、日の色は瓦《かわら》にも棟《むね》にも射さないで、眩《まぼ》しい局部もなく、総体が粛然《しゅくぜん》と喧《かま》びすしい十字の街《まち》の上に超越していた。この門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な采《あや》をいっこう具えていなかった。木も瓦も土もほぼ一色《ひといろ》に映る中に、風鈴《ふうりん》だけが器用に緑を吹いていただけである。瓦の崩《くず》れた間から長い草が見えた。廂の暗い影を掠《かす》めて白い鳩が二羽飛んだ。余は久しぶりに漢詩というものが作りたくなった。待っている間少し工夫して見たが、一句も纏《まと》まらないうちに、橋本が筆と墨を抱《かか》えて出て来たので興趣《きょうしゅ》は破れてしまった。
 このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、煉瓦《れんが》に封じ込められた塵埃《ちり
前へ 次へ
全89ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング