》には宿屋の馬車が迎えに来ていた。やはり泥の中から掘出して、炎天で乾かしたように色が変っている。荷物と人間をぐるに乗せて、構内を離れるや否や、御者《ぎょしゃ》が凄《すさま》じく鞭《むち》を鳴らした。峠《とうげ》を越す田舎《いなか》の乗合馬車よりも手荒な取扱方である。広い通りはそれほどでもないが、しだいに城内に近づくに従って、今まで野原同然に茫々《ぼうぼう》としていた往来《おうらい》が、左右の店の立込《たてこ》んで来ると共に狭くなる上に、鉄道馬車がその真中を駆けつつあるにもかかわらず、烈しい鞭の影は一分に一度ぐらいはきっと頭の上で閃《ひら》めいた。馬は無理にも急がなければならない。けれども奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。そこへ騾馬《らば》を六頭も着けた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。それだのに無人《むにん》の境《さかい》を行くがごとくに飛ばして見せる。我々のような平和を喜ぶ輩《ともがら》はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。御者はもちろんチャンチャンで、油に埃《ほこり》の食い込んだ辮髪《べんぱつ》を振り立てながら、時々満洲の声を出す。余は八の字を寄せて、馬の尻をすかしつつ眺めた。そうして、みだりに鞭を瘠《や》せ骨に加えて、旅客の御機嫌《ごきげん》を取るのは、女房を叱って佳賓《まろうど》をもてなすの類《たぐい》だと思った。
現に北陵《ほくりょう》から帰りがけに、宿近く乗りつけると、左り側に人が黒山のようにたかっている。その辺は支那の豆腐やら、肉饅頭《にくまんじゅう》やら、豆素麺《まめそうめん》などを売る汚《きた》ない店の隙間《すきま》なく並んでいる所であったが、黒い頭の塊《かた》まった下を覗《のぞ》くと、六十ばかりの爺さんが大地に腰を据《す》えて、両脛《りょうずね》を折ったなり前の方へ出していた。その右の膝《ひざ》と足の甲の間を二寸ほど、強い力で刳《えぐ》り抜《ぬ》いたように、脛の肉が骨の上を滑《すべ》って、下の方まで行って、いっしょに縮《ちぢ》れ上っている。まるで柘榴《ざくろ》を潰《つぶ》して叩《たた》きつけた風に見えた。こう云う光景には慣れているべきはずの案内も、少し寒くなったと見えて、すぐに馬車を留めて、支那語で何か尋ね出した。余も分らないながら耳を立てて、何だ何だと繰返して聞いた。不
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