よう》な文采《ぶんさい》は眸《ひとみ》に落ちるべきはずでない。余はむしろ怪しい趣《おもむき》をもって、この女の姿をしばらく見つめていた。
 室に帰ってまた寝た。眼が覚《さ》めると窓の外で虫の声がする。淋《さび》しくなったから、西洋間へ出て、長椅子の上に腰をかけて、謡《うたい》をうたった。無論|出鱈目《でたらめ》である。そこへ下女が来た。先刻《さっき》の女の事を聞いたら、何でも宅《うち》で知ってる人なんでしょうと云っただけで、ちっとも要領を得ない。昨夕《ゆうべ》飯を済まして煙草《たばこ》を呑《の》んでいると急に広間の方で、オルガンを弾《ひ》く音がしたが、あの女がやったんじゃないかと聞くと、いいえ昨夕のは宅の下女ですと云う。この原のなかに、それほどハイカラな下女がいようとは思いがけなかった。先刻の袴はもう帰ったそうである。
 余は一人長椅子の上に坐《すわ》った。そうして永い日が傾《かたむ》き尽して、原の色が寒く変るまでぽかんとしていた。すると静かな野の中でどうぞ、ちと御遊びに、私一人ですからと云う嬌《なまめ》かしい声がした。その音調は全くの東京ものである。余は突然立って、窓の外を眺めた。あいにく窓には寒冷紗《かんれいしゃ》が張ってあった。手早く硝子《ガラス》を開けて首を外へ出すと、外はもう一面に夕暮れていて、蒼《あお》い煙が女の姿を包んでしまったので誰だか分らなかった。
 橋本の連中はその晩帰って来た。下女のしらせで、暗い背戸《せど》に出て見ると、豆のような灯《ひ》が一つ遠くに見えた。下女はあれが連中だと云う。いくら野広《のびろ》いところだって、橋本以外にも灯が見える事もあるだろうと尋ねても、やっぱりあれだと云う。はたしてそうであった。灯は夕方宿から迎《むかえ》に出した支那人の持って行った提灯《ちょうちん》である。背戸口に馬を乗り捨てた橋本は、そう骨を折って見に行く所でもないよと云った。大重君は馬から三度落ちたそうである。

        四十五

 奉天へ行ったら満鉄公所《まんてつこうしょ》に泊《とま》るがいいと、立つ前に是公《ぜこう》が教えてくれた。満鉄公所には俳人|肋骨《ろっこつ》がいるはずだから、世話になっても構わないくらいのずるい腹は無論あったのだが、橋本がいっしょなので、多少遠慮した方が紳士だろうという事に相談がいつか一決してしまった。停車場《ステーション
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