れると命を取られる。ある時氷に路を塞《ふさ》がれて仕方がないから、船を棄《す》てて氷の上へ上《あが》って、乗り捨てた船を引《ひ》き摺《ず》って向う側へ出て、ようやくまた船に乗ったと云う話がある。これは主人《あるじ》の実歴談《じつれきだん》である。
サンパンは妙なところへ着いた。岸は芦《あし》を畳んでできている。石垣ではなくて芦垣《あしがき》である。こうしなければ水の力で浚《さら》われる恐れがあると云う。芦はいくらでも水を吸い込んで平気でいるから無難だと見える。細い小路《こうじ》を突き抜けると、支那町の真中へ出た。妙な臭《におい》がする。先刻《さっき》から胸が痛むのでポッケットから、粉薬《こぐすり》を出して飲もうとするがあいにく水がない。一滴の飲料も用いずに散薬を呑《の》み下《くだ》す方法は、その後《ご》苦《くる》し紛《まぎ》れに発見した分別《ふんべつ》だが、この時はまだそれほど老練な患者でないので、拝むように主人を煩《わずら》わした。主人はええ訳はありませんと云いつつも、ずいぶん烈《はげ》しく引張り廻した上、ほとんど苦しくって道傍《みちばた》に竦《すく》みそうになった頃、ようやく一軒の店へ這入《はい》った。盆栽《ぼんさい》などの据《す》えてある中庭を通り抜けて角《かど》の一部屋へ案内されたが、水はなかなか出る様子がない。そのうち、こちらへと云ってまた二階へ招《しょう》ぜられた。虫のように段々を上《あが》って廊下から室《へや》へ這入ると、日本人が二三人事務を執《と》っている。さあどうぞと椅子を与えられたので、挨拶《あいさつ》をして始めて解ったが、水を貰いに飛び込んだところは日清豆粕会社《にっしんまめかすかいしゃ》で、さあどうぞと迎えてくれたのは、社員の倉田君である。倉田君は固《もと》より日本から漫遊《まんゆう》もしくは視察の目的をもってわざわざ営口《えいこう》までやって来たものと余を信じている。服薬のために通りがかりのついでながら、日清豆粕会社の奥二階へ水を貰いに立ち寄ったと判じようはずがない。そこで水は容易に出ない。湯も出ない。今御茶を上げると云って、ボイがしきりに支度《したく》をしている。余は青林館の主人が恨《うら》めしくなった。けれども倉田君に対しては相応に体裁《ていさい》を具えた応対をしなければならない。豆が汽車で大連へ出るようになってから、河を下ってくる豆
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