《いいかげん》に歩を移して、突き当りの部屋に這入った。そこも狭い土間で、中央には普通の卓上《テーブル》が据《す》えてあった。それを囲んで三人の男が食事をしている。皿小鉢《さらこばち》から箸《はし》茶碗《ちゃわん》に至るまで汚《きた》ない事はなはだしい。卓に着いている男に至ってはなおさら汚なかった。まるで大連の埠頭《ふとう》で見る苦力《クーリー》と同様である。余はこの体裁《ていさい》を一見するや否や、台所で下男が飯《めし》を掻《か》き込んでるんじゃなかろうかと考えた。ところがつい隣の室でしきりに音楽をやっている。今見た美人のいる所とはつい三間とは離れていない。実に矛盾な感じである。
余は二歩ばかり洋卓《テーブル》を遠退《とおの》いて、次の室の入口を覗いて見た。そうしてまた驚いた。向《むこう》の壁に倚添《よりそ》えて一脚の机を置いて、その右に一人の男が腰をかけている。その左に女が三人立っている。その前には十二三の少女が男の方を向いて立《たっ》ている。少し離れて室《へや》の入口には盲目《めくら》が床几《しょうぎ》に腰をかけている。調子の高い胡弓《こきゅう》と歌の声はこの一団から出るのである。歌の意味も節も分らない余の耳にはこの音楽が一種異様に凄《すさま》じい響を伝えた。机の右にいる男が、右の手に筮竹《ぜいちく》のような物を持って、時々机の上を敲《たた》くと同時に左の掌《てのひら》に八橋《やつはし》と云う菓子に似た竹の片《きれ》を二つ入れて、それをかちかちと打合せながら、歌の調子を取る。趣向はスペインの女の用いるカスタネットに似ているが、その男の顔を見ると、アルハンブラの昔を思い出すどころではない。蒼黒《あおぐろ》く土気《つちけ》づいた色を、一心不乱に少女の頭の上に乗《の》しかけるように翳《かざ》して、腸《はらわた》を絞《しぼ》るほど恐ろしい声を出す。少女はまた瞬《またた》きもせず、この男の方を見つめて、細い咽喉《のど》を合している。それが怖《こわ》い魔物に魅入《みい》られて身動きのできない様子としか受取れない。盲目は彼の眼の暗いごとく、暗い顔をして、悲しい陰気な、しかも高い調子の胡弓を擦《す》り続《つづ》けに擦っている。左の方に立っている女の一人が余を見た。それが忌《い》むべき藪睨《やぶにらみ》であった。日の目の乏しくって暮やすい室のうちで、この怪しい団体はこの怪しい音
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