て見たが、実は余も知らなかった。為替《かわせ》の替《かわ》せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名《かな》が好いでしょうと忠告した。佐治さんは呆《あき》れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。
四
船が飯田河岸《いいだがし》のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚《きた》ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊《かたま》るとさらに不体裁《ふていさい》である。余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を見下《みおろ》しながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。そのうち船がだんだん河岸に近づいてくるに従って、陸《おか》の方で帽子を振って知人に挨拶《あいさつ》をするものなどができて来た。宣教師のウィンという人の妻君が、中村さんが多分迎えに来ておいででしょうと、笑いながら御世辞《おせじ》を云ったが、電報も打たず、いつ着くとも知らせなかった余の到着を、いくら権威赫々《けんいかくかく》たる総裁だって予知し得る道理がない。余は欄干《らんかん》に頬杖《ほおづえ》を突きながら、なるほどこいつはどうしたものかな、ひとまず是公の家《うち》へ行って宿を聞いて、それからその宿へ移る事にでもするかなと思ってるうちに、船は鷹揚《おうよう》にかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。止まるや否や、クーリー団は、怒《おこ》った蜂《はち》の巣のように、急に鳴動《めいどう》し始めた。その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持った身体《からだ》なんだから、しまいにはどうかしてくれるだろうと思って、やっぱり頬杖を突いて河岸の上の混戦を眺めていた。すると佐治さんが来て、夏目さんどこへおいでになりますと聞いてくれた。まあひとまず総裁の家《うち》へでも行って見ましょうと答えていると、そこへ背の高い、紺色《こんいろ》の夏服を着た立派な紳士が出て来て、懐中から名刺を出して叮嚀《ていねい》に挨拶をされた。
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