、安全髮剃を革砥《かはど》へ掛けて磨《と》ぐのだよ。今でも遣《や》つてる。嘘だと思ふなら來て御覽」
看護婦はたゞへえゝと云つた。段々聞いてみると、○○さんと云ふ患者は、ひどく其|革砥《かはど》の音を氣にして、あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問したのださうである。看護婦が何うも分らないと答へると、隣の人は大分快《だいぶんい》いので朝起きるすぐと、運動をする、其器械の音なんぢやないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云ふ話である。
「夫《そり》や好いが御前の方の音は何だい」
「御前の方の音つて?」
「そら能《よ》く大根《だいこ》を卸《おろ》す樣な妙な音がしたぢやないか」
「えゝ彼《あ》れですか。あれは胡瓜《きうり》を擦《す》つたんです。患者さんが足が熱《ほて》つて仕方がない、胡瓜《きうり》の汁《つゆ》で冷してくれと仰しやるもんですから私《わたし》が始終|擦《す》つて上げました」
「ぢや矢張大根卸《やつぱりだいこおろし》の音なんだね」
「えゝ」
「さうか夫《それ》で漸く分つた。――一體○○さんの病氣は何だい」
「直腸癌《ちよくちやうがん》です」
「ぢや到底《とても》六づかしいんだね」
「えゝもう疾《と》うに。此處を退院なさると直《ぢき》でした、御亡《おな》くなりになつたのは」
自分は默然《もくねん》としてわが室《へや》に歸つた。さうして胡瓜《きうり》の音で他《ひと》を焦《じ》らして死んだ男と、革砥《かはど》の音を羨ましがらせて快《よ》くなつた人との相違を心の中で思ひ比べた。
[#地寄せ]明治四四、七、一九―二○
底本:「漱石全集 第17巻」岩波書店
1957(昭和32)年1月12日第1版発行
1960年9月10日第2版
入力:山田豊
校正:Juki
1999年12月18日公開
2001年4月21日修正
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