った。だんだん聞いて見ると、○○さんと云う患者は、ひどくその革砥の音を気にして、あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問したのだそうである。看護婦がどうも分らないと答えると、隣の人はだいぶん快《い》いので朝起きるすぐと、運動をする、その器械の音なんじゃないか羨《うらや》ましいなと何遍《なんべん》も繰り返したと云う話である。
「そりゃ好いが御前の方の音は何だい」
「御前の方の音って?」
「そらよく大根《だいこ》をおろすような妙な音がしたじゃないか」
「ええあれですか。あれは胡瓜《きゅうり》を擦《す》ったんです。患者さんが足が熱《ほて》って仕方がない、胡瓜の汁《つゆ》で冷してくれとおっしゃるもんですから私《わたし》が始終《しじゅう》擦って上げました」
「じゃやっぱり大根おろしの音なんだね」
「ええ」
「そうかそれでようやく分った。――いったい○○さんの病気は何だい」
「直腸癌《ちょくちょうがん》です」
「じゃとてもむずかしいんだね」
「ええもうとうに。ここを退院なさると直《じき》でした、御亡《おな》くなりになったのは」
自分は黙然《もくねん》としてわが室《へや》に帰った。そうして胡瓜《きゅうり》の音で他《ひと》を焦《じ》らして死んだ男と、革砥《かわど》の音を羨《うらや》ましがらせて快《よ》くなった人との相違を心の中で思い比べた。
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年5月12日公開
1999年8月30日修正
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