見極《みき》わめる事ができないうちに病人は退院してしまったのである。そのうち自分も退院した。そうして、かの音に対する好奇の念はそれぎり消えてしまった。

    下

 三カ月ばかりして自分はまた同じ病院に入った。室《へや》は前のと番号が一つ違うだけで、つまりその西隣であった。壁|一重《ひとえ》隔《へだ》てた昔の住居《すまい》には誰がいるのだろうと思って注意して見ると、終日かたりと云う音もしない。空《あ》いていたのである。もう一つ先がすなわち例の異様の音の出た所であるが、ここには今誰がいるのだか分らなかった。自分はその後《のち》受けた身体《からだ》の変化のあまり劇《はげ》しいのと、その劇しさが頭に映って、この間からの過去の影に与えられた動揺が、絶えず現在に向って波紋を伝えるのとで、山葵《わさび》おろしの事などはとんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分に近い運命を持った在院の患者の経過の方が気にかかった。看護婦に一等の病人は何人いるのかと聞くと、三人だけだと答えた。重いのかと聞くと重そうですと云う。それから一日二日して自分はその三人の病症を看護婦から確《たしか》めた。一人は食道癌《しょくどうがん》であった。一人は胃癌《いがん》であった、残る一人は胃潰瘍《いかいよう》であった。みんな長くは持たない人ばかりだそうですと看護婦は彼らの運命を一纏《ひとまと》めに予言した。
 自分は縁側《えんがわ》に置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。実は菊を買うはずのところを、植木屋が十六貫だと云うので、五貫に負けろと値切っても相談にならなかったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと云ってもやっぱり負けなかった、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持って来た人の話を思い出して、賑《にぎ》やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描《えが》きなどして見た。
 やがて食道癌の男が退院した。胃癌の人は死ぬのは諦《あきら》めさえすれば何でもないと云って美しく死んだ。潰瘍の人はだんだん悪くなった。夜半《よなか》に眼を覚《さま》すと、時々東のはずれで、付添《つきそい》のものが氷を摧《くだ》く音がした。その音がやむと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二人死んで自分だけ残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。あの病人は嘔気《はきけ》があって、向うの端からこっちの果《はて》まで響くような声を出して始終《しじゅう》げえげえ吐いていたが、この二三日それがぴたりと聞えなくなったので、だいぶ落ちついてまあ結構だと思ったら、実は疲労の極《きょく》声を出す元気を失ったのだと知れた。」
 その後《のち》患者は入れ代り立ち代り出たり入ったりした。自分の病気は日を積むにしたがってしだいに快方に向った。しまいには上草履《うわぞうり》を穿《は》いて広い廊下をあちこち散歩し始めた。その時ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利《き》くようになった。暖かい日の午過《ひるすぎ》食後の運動がてら水仙の水を易《か》えてやろうと思って洗面所へ出て、水道の栓《せん》を捩《ねじ》っていると、その看護婦が受持の室《へや》の茶器を洗いに来て、例の通り挨拶《あいさつ》をしながら、しばらく自分の手にした朱泥《しゅでい》の鉢《はち》と、その中に盛り上げられたように膨《ふく》れて見える珠根《たまね》を眺めていたが、やがてその眼を自分の横顔に移して、この前御入院の時よりもうずっと御顔色が好くなりましたねと、三カ月前の自分と今の自分を比較したような批評をした。
「この前って、あの時分君もやはり附添でここに来ていたのかい」
「ええつい御隣でした。しばらく○○さんの所におりましたが御存じはなかったかも知れません」
 ○○さんと云うと例の変な音をさせた方の東隣である。自分は看護婦を見て、これがあの時|夜半《よなか》に呼ばれると、「はい」という優しい返事をして起き上った女かと思うと、少し驚かずにはいられなかった。けれども、その頃自分の神経をあのくらい刺激した音の原因については別に聞く気も起らなかった。で、ああそうかと云ったなり朱泥の鉢を拭《ふ》いていた。すると女が突然少し改まった調子でこんな事を云った。
「あの頃あなたの御室で時々変な音が致しましたが……」
 自分は不意に逆襲を受けた人のように、看護婦を見た。看護婦は続けて云った。
「毎朝六時頃になるときっとするように思いましたが」
「うん、あれか」と自分は思い出したようについ大きな声を出した。「あれはね、自働革砥《オートストロップ》の音だ。毎朝|髭《ひげ》を剃《そ》るんでね、安全髪剃《あんぜんかみそり》を革砥《かわど》へかけて磨《と》ぐのだよ。今でもやってる。嘘《うそ》だと思うなら来て御覧」
 看護婦はただへええと云
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