端からこっちの果《はて》まで響くような声を出して始終《しじゅう》げえげえ吐いていたが、この二三日それがぴたりと聞えなくなったので、だいぶ落ちついてまあ結構だと思ったら、実は疲労の極《きょく》声を出す元気を失ったのだと知れた。」
 その後《のち》患者は入れ代り立ち代り出たり入ったりした。自分の病気は日を積むにしたがってしだいに快方に向った。しまいには上草履《うわぞうり》を穿《は》いて広い廊下をあちこち散歩し始めた。その時ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利《き》くようになった。暖かい日の午過《ひるすぎ》食後の運動がてら水仙の水を易《か》えてやろうと思って洗面所へ出て、水道の栓《せん》を捩《ねじ》っていると、その看護婦が受持の室《へや》の茶器を洗いに来て、例の通り挨拶《あいさつ》をしながら、しばらく自分の手にした朱泥《しゅでい》の鉢《はち》と、その中に盛り上げられたように膨《ふく》れて見える珠根《たまね》を眺めていたが、やがてその眼を自分の横顔に移して、この前御入院の時よりもうずっと御顔色が好くなりましたねと、三カ月前の自分と今の自分を比較したような批評をした。
「この前って、あの時分君もやはり附添でここに来ていたのかい」
「ええつい御隣でした。しばらく○○さんの所におりましたが御存じはなかったかも知れません」
 ○○さんと云うと例の変な音をさせた方の東隣である。自分は看護婦を見て、これがあの時|夜半《よなか》に呼ばれると、「はい」という優しい返事をして起き上った女かと思うと、少し驚かずにはいられなかった。けれども、その頃自分の神経をあのくらい刺激した音の原因については別に聞く気も起らなかった。で、ああそうかと云ったなり朱泥の鉢を拭《ふ》いていた。すると女が突然少し改まった調子でこんな事を云った。
「あの頃あなたの御室で時々変な音が致しましたが……」
 自分は不意に逆襲を受けた人のように、看護婦を見た。看護婦は続けて云った。
「毎朝六時頃になるときっとするように思いましたが」
「うん、あれか」と自分は思い出したようについ大きな声を出した。「あれはね、自働革砥《オートストロップ》の音だ。毎朝|髭《ひげ》を剃《そ》るんでね、安全髪剃《あんぜんかみそり》を革砥《かわど》へかけて磨《と》ぐのだよ。今でもやってる。嘘《うそ》だと思うなら来て御覧」
 看護婦はただへええと云
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