競争があって、相応の読者を有する訳になります。私は実際の作物にあたって、とかくの評をする事をしない。したがって向後の読書界がどういう作物をどう歓迎するかも云えない。ただ形式ばかりの話ではなはだつまらないが、各自この形式を実地にあてはめて見たらいろいろな鑑定ができるだろうと思う。
 競争はとうてい免《まぬ》がれない。また競争がなければ作物は進歩しない。今日の作物がこれまで進歩したのは作家の天分にもよるだろうけれども大部分は競争の賜物だろうと考えます。英国の政党が立憲政治の始まった時から二派に分れている。あれは偶然のような必然のような歴史を有しているが相互に相互を研究し啓発すると云う大原則を政治上にうまく応用したものであります。もっともこれは圏外の競争の意味である。そうして、日本の作物が輓近《ばんきん》四五年間に大変進歩したのは、全くこの圏外の競争心の結果ではなかろうかと思われる。
 圏外の競争は一方において反撥《はんぱつ》を意味している。けれどもその反撥の裏面には同化の芽を含んでいる。反撥すると云う事がすでに対者を知らねばできない事になる。対者を知るためには一種の研究をしなければならない。その研究をして反撥し合っているうちに対者の立場やら長所やらを自然と認めなければならないようになる。その時にある程度の同化はどうしても起るべきはずである。文壇がこの期に達した時には混戦の状態に陥《おち》いる。混戦の状態に陥ると一騎打の競争よりほかになくなってしまう。日本の文壇がすでに混戦時代に達したか、あるいは達せんとしつつあるかは読者の判断に任せておきます。
 いわゆる文明社界に住む人の特色は何だと纏《まと》めて云って御覧なさい。私にはこう見える。いわゆる文明社会に住む人は誰を捉《つか》まえてもたいてい同じである。教育の程度、知識の範囲、その他いろいろの資格において、ほぼ似通っている。だから誰かれの差別はない。皆同じである。が同時に一方から見ると文明社会に住む人ほど個人主義なものはない。どこまでも我は我で通している。人の威圧やら束縛をけっして肯《うけが》わない。信仰の点においても、趣味の点においても、あらゆる意見においても、かつて雷同附和の必要を認めない。また阿諛迎合《あゆげいごう》の必要を認めない。してみるといわゆる文明社界に生息している人間ほど平等的なるものはなく、また個人的なるものはない。すでに平等的である以上は圏を画して圏内圏外の別を説く必要はない。英国の二大政党のごときは単に採決に便宜《べんぎ》なる約束的の団隊と見傚《みな》して差支《さしつかえ》ない。またすでに個人的である以上はどこまでも自己の特色を自己の特色として保存する必要がある。
 文壇の諸公をいわゆる文明社会に住む人と見傚せば、勢いこの性質を具していなければならない。人間としてこの性質を帯びている以上は作物の上にも早晩この性質を発揮するのが天下の趨勢《すうせい》である。いわゆる混戦時代が始まって、彼我《ひが》相通じ、しかも彼我相守り、自己の特色を失わざると共に、同圏異圏の臭味を帯びざるようになった暁が、わが文壇の歴史に一段落を告げる時ではなかろうかと思います。



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年6月14日公開
2003年11月28日修正
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