見せたが、こう両方の手を使って、餌壺をどうして籠の中へ入れる事ができるのか、つい聞いておかなかった。
自分はやむをえず餌壺を持ったまま手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開《あ》いた口をすぐ塞《ふさ》いだ。鳥はちょっと振り返った。そうして、ちちと鳴いた。自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙《すき》を窺《うかが》って逃げるような鳥とも見えないので、何となく気の毒になった。三重吉は悪い事を教えた。
大きな手をそろそろ籠の中へ入れた。すると文鳥は急に羽搏《はばたき》を始めた。細く削《けず》った竹の目から暖かいむく毛が、白く飛ぶほどに翼《つばさ》を鳴らした。自分は急に自分の大きな手が厭《いや》になった。粟《あわ》の壺と水の壺を留り木の間にようやく置くや否や、手を引き込ました。籠の戸ははたりと自然《ひとりで》に落ちた。文鳥は留り木の上に戻った。白い首を半《なか》ば横に向けて、籠の外にいる自分を見上げた。それから曲げた首を真直《まっすぐ》にして足の下《もと》にある粟と水を眺めた。自分は食事をしに茶の間へ行った。
その頃は日課として小説を書いている時分であった。飯と飯の間はたいてい机に向って筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍《がらん》のような書斎へは誰も這入《はい》って来ない習慣であった。筆の音に淋《さび》しさと云う意味を感じた朝も昼も晩もあった。しかし時々はこの筆の音がぴたりとやむ、またやめねばならぬ、折もだいぶあった。その時は指の股《また》に筆を挟《はさ》んだまま手の平《ひら》へ顎《あご》を載せて硝子越《ガラスごし》に吹き荒れた庭を眺めるのが癖《くせ》であった。それが済むと載せた顎を一応|撮《つま》んで見る。それでも筆と紙がいっしょにならない時は、撮んだ顎を二本の指で伸《の》して見る。すると縁側《えんがわ》で文鳥がたちまち千代《ちよ》千代と二声鳴いた。
筆を擱《お》いて、そっと出て見ると、文鳥は自分の方を向いたまま、留《とま》り木《ぎ》の上から、のめりそうに白い胸を突き出して、高く千代と云った。三重吉が聞いたらさぞ喜ぶだろうと思うほどな美《い》い声で千代と云った。三重吉は今に馴《な》れると千代と鳴きますよ、きっと鳴きますよ、と受合って帰って行った。
自分はまた籠の傍《そば》へしゃがんだ。文鳥は膨《ふく》らんだ首を二三度|竪横《たてよこ》に向け直した。やがて一団《ひとかたまり》の白い体がぽいと留り木の上を抜け出した。と思うと奇麗《きれい》な足の爪が半分ほど餌壺《えつぼ》の縁《ふち》から後《うしろ》へ出た。小指を掛けてもすぐ引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》りそうな餌壺は釣鐘《つりがね》のように静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。何だか淡雪《あわゆき》の精《せい》のような気がした。
文鳥はつと嘴《くちばし》を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平《なら》して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零《こぼ》れた。文鳥は嘴《くちばし》を上げた。咽喉《のど》の所で微《かすか》な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細《こま》やかで、しかも非常に速《すみや》かである。菫《すみれ》ほどな小さい人が、黄金《こがね》の槌《つち》で瑪瑙《めのう》の碁石《ごいし》でもつづけ様に敲《たた》いているような気がする。
嘴《くちばし》の色を見ると紫《むらさき》を薄く混《ま》ぜた紅《べに》のようである。その紅がしだいに流れて、粟《あわ》をつつく口尖《くちさき》の辺《あたり》は白い。象牙《ぞうげ》を半透明にした白さである。この嘴が粟の中へ這入《はい》る時は非常に早い。左右に振り蒔《ま》く粟の珠《たま》も非常に軽そうだ。文鳥は身を逆《さか》さまにしないばかりに尖《とが》った嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨《ふ》くらんだ首を惜気《おしげ》もなく右左へ振る。籠の底に飛び散る粟の数は幾粒だか分らない。それでも餌壺《えつぼ》だけは寂然《せきぜん》として静かである。重いものである。餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。
自分はそっと書斎へ帰って淋《さび》しくペンを紙の上に走らしていた。縁側《えんがわ》では文鳥がちちと鳴く。折々は千代千代とも鳴く。外では木枯《こがらし》が吹いていた。
夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺の縁《ふち》へ懸《か》けて、小《ちさ》い嘴に受けた一雫《ひとしずく》を大事そうに、仰向《あおむ》いて呑《の》み下《くだ》している。この分では一杯の水が十日ぐらい続くだろうと思ってまた書斎へ帰った。晩には箱へしまってやった。寝る時|硝子戸《ガラスど》から外を覗《のぞ》いたら、月が出て、霜《しも》が降っていた。文
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