》に日が射している。たちまち文鳥に餌《え》をやらなければならないなと思った。けれども起きるのが退儀《たいぎ》であった。今にやろう、今にやろうと考えているうちに、とうとう八時過になった。仕方がないから顔を洗うついでをもって、冷たい縁を素足《すあし》で踏みながら、箱の葢《ふた》を取って鳥籠を明海《あかるみ》へ出した。文鳥は眼をぱちつかせている。もっと早く起きたかったろうと思ったら気の毒になった。
文鳥の眼は真黒である。瞼《まぶた》の周囲《まわり》に細い淡紅色《ときいろ》の絹糸を縫いつけたような筋《すじ》が入っている。眼をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首をちょっと傾《かたぶ》けながらこの黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた。
自分は静かに鳥籠を箱の上に据《す》えた。文鳥はぱっと留《とま》り木《ぎ》を離れた。そうしてまた留り木に乗った。留り木は二本ある。黒味がかった青軸《あおじく》をほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華奢《きゃしゃ》にできている。細長い薄紅《うすくれない》の端に真珠を削《けず》ったような爪が着いて、手頃な留り木を甘《うま》く抱《かか》え込《こ》んでいる。すると、ひらりと眼先が動いた。文鳥はすでに留り木の上で方向《むき》を換えていた。しきりに首を左右に傾《かたぶ》ける。傾けかけた首をふと持ち直して、心持前へ伸《の》したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向うの留り木の真中あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔を覗《のぞ》き込んだ。
自分は顔を洗いに風呂場《ふろば》へ行った。帰りに台所へ廻って、戸棚《とだな》を明けて、昨夕《ゆうべ》三重吉の買って来てくれた粟の袋を出して、餌壺の中へ餌を入れて、もう一つには水を一杯入れて、また書斎の縁側へ出た。
三重吉は用意周到な男で、昨夕《ゆうべ》叮嚀《ていねい》に餌《え》をやる時の心得を説明して行った。その説によると、むやみに籠の戸を明けると文鳥が逃げ出してしまう。だから右の手で籠の戸を明けながら、左の手をその下へあてがって、外から出口を塞《ふさ》ぐようにしなくっては危険だ。餌壺《えつぼ》を出す時も同じ心得でやらなければならない。とその手つきまでして
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