十五円だと云って居る。家主が怒るかも知れぬ。地坪は三百坪あるから、庭は狭い方では無い。然《しか》し植木は皆自分で入れたのだから、こんな庭の附いている家としたら、三十五円や四十円では借りられないだろう。植木屋と云うものは勝手なもので、一度手入れをさせたら、こっちで呼ばないのに、時々若い者を連れて仕事にやって来る。物の一月余りもこちこち其処辺《そこら》をいじって居る事がある。別に断わるのも妙だと思って、何とも云わずに居るが、中々金がかかる。
私はもっと明るい家が好きだ。もっと奇麗《きれい》な家にも住みたい。私の書斎の壁は落ちてるし、天井《てんじょう》は雨洩《あまも》りのシミがあって、随分|穢《きたな》いが、別に天井を見て行って呉《く》れる人もないから、此儘《このまま》にして置く。何しろ畳の無い板敷である。板の間から風が吹き込んで冬などは堪《たま》らぬ。光線の工合《ぐあい》も悪い。此上に坐《すわ》って読んだり書いたりするのは辛《つら》いが、気にし出すと切りが無いから、関《かま》わずに置く。此間或る人が来て、天井を張る紙を上げましょうと云って呉れたが、御免《ごめん》を蒙《こうむ》った。別に私がこんな家が好きで、こんな暗い、穢《きたな》い家に住んで居るのではない。余儀なくされて居るまでである。
娯楽と云うような物には別に要求もない。玉突は知らぬし、囲碁《いご》も将棊《しょうぎ》も何も知らぬ。芝居は此頃何かの行掛り上から少し見た事は見たが、自然と頭の下るような心持で見られる芝居は一つも無かった。面白いとは勿論《もちろん》思わぬ。音楽も同様である。西洋音楽のいいのを聞いたら如何《どう》か知らぬが、私は今までそう云う西洋音楽を聞いた事の無い為《せい》か、未《ま》だ一度も良い書画を見る位の心持さえ起した事は無い。日本音楽などは尚更《なおさら》詰らぬものだと思う。只《ただ》謡曲|丈《だ》けはやって居る。足掛六七年になるが、これも怠《なま》けて居るから、どれ程の上達もして居ない。下《しも》がかりの宝生で、先生は宝生新氏である。尤《もっと》も私は芸術のつもりでやって居るのではなく、半分運動のつもりで唸《うな》るまでの事である。
書画だけには多少の自信はある。敢《あえ》て造詣《ぞうけい》が深いというのでは無いが、いい書画を見た時|許《ばか》りは、自然と頭が下るような心持がする。人に頼
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