ていると云う事も申されない。換言して見ると己《おのれ》を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、いわゆる物我なるものは契合一致《けいごういっち》しなければならん訳になります。物我の二字を用いるのはすでに分りやすいためにするのみで、根本義から云うと、実はこの両面を区別しようがない、区別する事ができぬものに一致などと云う言語も必要ではないのであります。だからただ明かに存在しているのは意識であります。そうしてこの意識の連続を称して俗に命《いのち》と云うのであります。
 連続と云う字を使用する以上は意識が推移して行くと云う意味を含んでおって、推移と云う意味がある以上は(一)意識に単位がなければならぬと云う事と(二)この単位が互に消長すると云う事と(三)は消長が分明であるくらいに単位意識が明暸《めいりょう》でなければならぬと云う事と(四)意識の推移がある法則に支配せらるるやと云う事になりますから、問題がよほど込入って来ますが、今はそんな面倒な事を御話する場合でないから、諸君の御研究に一任する事として講話を進めます。もっとも今申した四カ条のうち、意識推移の原則については私の「文学
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