て真を欠いてるから駄目[#「駄目」に傍点]だと云うのは、云う方が駄目《だめ》です。ミレーの晩祈の図は一種の幽遠な情をあらわしている。そこに目がつけば、それでたくさんである。この画には意志の発動がないと云うのは、我慢して聞いてやっても好い。発動がないから画にならんと云うなら、発動の管《くだ》から文芸の世界を見る蛙《かえる》のようなものであります。
しかしながら、一の理想をあらわすときに、他の理想を欠いている場合と、積極的に他の理想を打ち崩《くず》している場合とは少々違うのであります。欠いているのはただ含んでおらんと云うまでで、打ち壊すとなると明かにその理想に違背しているのですからして、この場合には作家の標準にした理想が、すべての他を忘却せしめ得るほどな手際《てぎわ》でうまく作物にあらわれておらねばならん。けれどもこれは天才でもはなはだむずかしい。したがって普通の場合には功罪が帳消しになって余す所は棒だけになります。いくら藤村の羊羹《ようかん》でもおまるの中に入れてあると、少し答えます。そのおまるたると否とを問わず、むしゃむしゃ食うものに至っては非常|稀有《けう》の羊羹好きでなければなりません。あれも学才があって教師には至極《しごく》だが、どうも放蕩《ほうとう》をしてと云う事になるととうてい及第はできかねます。品行が方正でないというだけなら、まだしもだが、大に駄々羅遊《だだらあそ》びをして、二尺に余る料理屋のつけ[#「つけ」に傍点]を懐中に呑《の》んで、蹣跚《まんさん》として登校されるようでは、教場内の令名に関わるのは無論であります。だからいかな長所があっても、この長所を傷ける短所があって、この短所を忘れ得せしむるだけに長所が卓然《たくぜん》としていない作物は、惜しいけれども文句がつきます。私はとくに惜しいけれども[#「惜しいけれども」に傍点]と云いたい。惜しいと云うのは、すでに長所を認めた上の批評であり、かつ短所をも知り抜いた上の判断で、一本調子に搦手《からめて》ばかり、五年も六年も突《つ》ついている陣笠連《じんがされん》とは歩調を一にしたくないからこう云うのであります。
そこでいよいよ現代文芸の理想に移って、少々|気焔《きえん》を述べたいと思います。現代文芸の理想は何でありましょう。美? 美ではない。画の方、彫刻の方でもおそらく、単純な美ではないかも知れないが、それは不案内だから、諸君の御一考を煩《わずら》わすとして、文学について申すとけっして美ではない。美と云うものを唯一《ゆいいつ》の生命にしてかいたものは、短詩のほかにはないだろうと思います。小説には無論ありますまい。脚本は固《もと》よりです。詳《くわ》しく云うと、暇がかかるから、このくらいで御免蒙《ごめんこうむ》って先へ進みます。現代の理想が美でなければ、善であろうか、愛であろうか。この種の理想は無論幾多の作物中に経となり緯となりて織り込まれているには相違ないが、これが現代の理想だと云うには、遥《はるか》に微弱すぎると思います。それでは荘厳だろうか。荘厳が現代の理想ならばいささか頼母《たのも》しい気持もするが、実際はかえって反対である。現代の世ほど heroism に欠乏した世はなく、また現代の文学ほど heroism を発揚しない文学は少かろうと思います。現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つも出ないのでも分ります。現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない。例を引けば長くなる、証を挙《あ》げれば大変である。仕方がないから、ただ真の一字が現代文芸ことに文学の理想であると云い放っておきます。しばらくこれを事実と御承認を願いたい。ところでこの真なるものも、いわゆる分化作用で、いろいろの種類と程度を有しているには相違ない、英仏独露の諸書を猟渉《りょうしょう》したらばその変形のおもなものを指摘する事はできる事になりましょう。私はそれに対してけっして不平を云うつもりではありません。前に云うごとく、真は四理想の一であって、その一たる真が勢を得て、他の三理想が比較的下火になるのも、時勢の推移上|銀杏返《いちょうがえ》しがすたれて束髪《そくはつ》が流行すると同じように、やむをえぬ次第と考えられます。しかしこれについて一言御参考のために申し上げておきたいのは、ほかでありませんが、こういう事なんです。
人間の観察と云う者は深くなると狭くなるものです。世の中に何が狭いと云って専門家ほど狭いものはないのでも御分りになるでしょう。狭いと云う事は別段わるいと云う意味は含んでおりませんから、構わないと主張されるかも知れませんが、狭いと云うと不都合な事になります。医者があまり熱心になって狭い専門の範囲を、寝ても覚《さ》めても出る事ができな
前へ
次へ
全27ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング