けられたる自己の理想が、新しき点において、深き点において、もしくは広き点において、啓発《けいはつ》を受くる刹那《せつな》に大悟する場合を云うのであります。縁なき衆生《しゅじょう》は度しがたしとは単に仏法のみで言う事ではありません。段違いの理想を有しているものは、感化してやりたくても、感化を受けたくてもとうていどうする事もできません。
還元的感化と云う字が少々妙だから、御分りにならんかと思います。これを説明すると、こういう意味になります。文芸家は今申す通り自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらわすので、その現わされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、そのままに写し出したものに過ぎません。だからこれに対して享楽《きょうらく》の境《さかい》に達するという意味は、文芸家のあらわした意識の連続に随伴すると云う事になります。だから我々の意識の連続が、文芸家の意識の連続とある度まで一致しなければ、享楽と云う事は行われるはずがありません。いわゆる還元的感化とはこの一致の極度において始めて起る現象であります。
一致の意味は固《もと》より明暸で、この一致した意識の連続が我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも痕迹《こんせき》を残すのがいわゆる感化であります。すると説明すべきものはただ還元の二字になります。しかしこの二字もまた一致と云う字面のうちに含まれております。一致と云うと我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して一となると云う意味でありますが、それは一致せぬ前に言うべき事で、すでに一致した以上は一もなく二もない訳でありますからして、この境界に入ればすでに普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越しております。ところがこの物我の境を超越すると云う事は、この講演の出立地であって、またあらゆる思索の根拠《こんきょ》本源になります。したがって文芸の作物に対して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に(反省的でなくと云う意なり)享楽を擅《ほしいまま》にする間は、時間も空間もなく、ただ意識の連続があるのみであります。もっともここに時間も空間もないと云うのは作物中にないと云うのではない、自己が作物に対する時間、また自己が占めている空間がないという意味であって、読んで何時間かかるか、また読んでいる場所は書斎の裡《うち》か郊外か蓐中《じょくちゅう》かを忘れると云うの
前へ
次へ
全54ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング