してはならんのであります。換言すると文芸的に知を働かせるため感覚的の具体を藉《か》りて来なければ成立しない、具体を藉りてその媒介を待てば知の働きといえどもこれを文芸化するを得べしと云う事になります。そうすると、ここに新しい文芸上の理想が出来上ります。すなわち物を道具に使って、知を働かし、その関係を明かにして情の満足を得ると云う理想であります。この理想を真《しん》に対する理想と云います。だからして真に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同時に文芸家の理想にもなります。ただし後者は具体を通じて[#「具体を通じて」に傍点]真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者と異なるのであります。そうしてこの真のあらわし方、すなわち知を働かす具合も分化していろいろになりますが、おもに人間の精神作用が、(この場合には(一)におけるごとく人間を純感覚物と見做《みな》さないのである)あらかじめ吾人の予想した因果律《いんがりつ》と一致するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意義に応じて発展する場合に多く用いられるのであります。たとえば父子《おやこ》が激論をしていると、急に火事が起って、家が煙につつまれる。その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩《けんか》を忘れて、互に相援《あいたす》けて門外に逃げるところを小説にかく。すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにしたと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、真に対する情の満足を得せしむるのであります。または反対に、大変|中《なか》のよかった夫婦が飢饉《ききん》のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき粥《かゆ》を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。するとこれもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにすると云う点で同様の満足を作者と読者に与えるかも知れない。(人間の精神作用から云うと真はいろいろである。時には相反しても依然として双方共真である)好んでこう言う事をかく文芸家を真を理想にする文芸家と云います。
(ろ)吾人の有する第二の精神作用は情であります。この情を理想として働かせる人を文芸家と云う事は前に述べた通りでありますが、説いてここに至ると混雑を生じやすいからして、少々弁じた上進行します。単に情と云うと曖昧《あいまい》であります。なぜなれば我々が情の活動を得
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