にえらいと考えている。内務省の地方局長の方がなお遥にえらいと思っている。大臣や金持や華族様はなおなお遥にえらいと思っている。妙な事であります。もし我々が小説家から、人間と云うものは、こんなものであると云う新事実を教えられたならば、我々は我々の分化作用の径路において、この小説家のために一歩の発展を促《うなが》されて、開化の進路にあたる一叢《ひとむら》の荊棘《いばら》を切り開いて貰ったと云わねばならんだろうと思います。(小説家の功力《くりき》はこの一点に限ると云う意味ではない。この一点を挙《あ》げて考えても局長さんや博士さんに劣るものでないと云うのであります)もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もないではないかと云われるならば、私はこう答える。それは小説家の罪ではない。現今日本の小説家(私もその一人と御認めになってよろしい)の罪である。局長にでも[#「でも」に傍点]があるごとく、博士にでも[#「でも」に傍点]があるごとく、小説家にでも[#「でも」に傍点]があるのも御互様と申さねばならぬのであります。――また泥溝《どぶ》の中へ落ちました。
 実はまだ文学の御話をするほどに講演の歩を進めておらんのであります。分化作用を述べる際につい口が滑《すべ》って文学者ことに小説家の眼識に論及してしまったのであります。だからこれをもって彼らの使命の全般をつくしたとは申されない。前にも云う通りついでだから分化作用に即《そく》して彼らの使命の一端を挙《あ》げたのに過ぎんのである。したがって文学全体に渉《わた》っての御話をするときには今少し概括的《がいかつてき》に出て来なければならぬ訳です。これから追々そこまで漕ぎつけて行きます。
 かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、物を分って自然と人間(物として観たる人間)と超感覚的な神(我を離れて神の存在を認める場合に云うのであります)とし、我を分って知、情、意の三とします。この我[#「我」に白丸傍点]なる三作用と我以外の物[#「物」に白丸傍点]とを結びつけると、明かに三の場合が成立します。すなわち物に向って知を働かす人と、物に向って情を働かす人と、それから物に向って意を働かす人であります。無論この三作用は元来独立しておらんのだから、ここで知を働かし、情を働かし、意を働かすと云うのは重[#「重」に白丸傍点]に働かすと云う意味で、全然他の作用を除却して
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