論」の第五篇に不完全ながら自分の考えだけは述べておきましたから、御参考を願いたいと思います。ついでに「文学論」も一部ずつ御求めを願いたいと思います。――とにかく意識がある。物もない、我もないかも知れないが意識だけはたしかにある。そうしてこの意識が連続する。なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明がつくにしても、つかぬにしても連続するのはたしかであるから、これを事実として歩を進めて行く。
そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧《かえり》みると少々妙であります。最初には私と云うものがあると申しました。あなた方《がた》もたしかにおいでになると申しました。そうして、御互に空間と云う怪しいものの中に這入《はい》り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹《さお》さして、因果《いんが》の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っていると申しました。ところが不通俗に考えた結果によるとまるで反対になってしまいました。物我などと云う関門は最初からない事になりました。天地すなわち自己と云うえらい事になりました。いつの間にこう豹変《ひょうへん》したのか分らないが、全く矛盾してしまいました。(空間、時間、因果律もやはりこの豹変のうちに含んでいます。それは講話の都合で後廻しにしましたから、今にだんだんわかります)
なぜこんな矛盾が起ったのだろうか。よく考えると何にもないのに、通俗では森羅万象《しんらばんしょう》いろいろなものが掃蕩《そうとう》しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充※[#「特のへん+仞のつくり」、第4水準2−80−18]《じゅうじん》している。戸張君ではないが天地前にあり、竹風ここにありと云いたくなるくらいであります。――なぜこんな矛盾が起ったのであろうか。これはすこぶる大問題である。面倒にむずかしく論じて来たら大分暇がかかりましょう。私は必要上、ごく粗末なところを、はなはだ短い時間内に御話するのであるから、無論|豪《えら》い哲学者などが聞いておられたら、不完全だと云って攻撃せられるだろうと思います。しかしこの短い時間内に、こんな大袈裟《おおげさ》な問題を片づけるのだから、無論完全な事を云うはずがない、不完全は無論不完全だが、あの度胸が感心だと賞《ほ》めていただきたい。もっとも時間は幾らでも与えるから、もっと立派に言えと注文されても私の手際《てぎわ》では覚束《お
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