木君の云われた市気匠気と云うのは、かかる閑人の文芸家に着いて廻るのであります。要するに我々に必要なのは理想である。理想は文に存するものでもない、絵に存するものでもない、理想を有している人間に着いているものである。だからして技巧の力を藉《か》りて理想を実現するのは人格の一部を実現するのである。人格にない事を、ただ句を綴《つづ》り章を繋《つな》いで、上滑りのするようにかきこなしたって、閑人に過ぎません。俗にこれを柄《がら》にないと申します。柄にない事は、やっても閑人でやらなくても閑人だから、やらない方が手数が省けるだけ得になります。ただ新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧は始めてこの人のため至大な用をなすのであります。一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がないのであります。そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃《ひら》めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡《こんせき》を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神|気魄《きはく》は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完《まっと》うしたるものであります。
[#地付き]――明治四十年四月東京美術学校において述――



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本で、表題に続いて配置されていた講演の日時と場所に関する情報は、ファイル末に地付きで置きました。
入力:柴田卓治
校正:大野晋
2000年4月11日公開
2008年5月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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