きておりません。けれども、あの議論の上へ上へとこれからの人が、新知識を積んで行って、私の疎漏《そろう》なところを補い、誤謬《ごびゅう》のあるところを正して下さったならば、批評学が学問として未来に成立せんとは限らんだろうと思います。私はある事情から重に創作の方をやる考えでありますから、向後この方面に向って、どのくらいの貢献ができるか知れませんが、もし篤実な学者があって、鋭意にそちらを開拓して行かれたならば、学界はこの人のために大いなる利益を享《う》けるに相違なかろうと確信しております。
 最後に一言を加えます。我々は生きたい生きたいと云う下司《げす》な念を本来持っております。この下司な了見《りょうけん》からして、物我の区別を立てます。そうしていかなる意識の連続を得んかという選択の念を生じ、この選択の範囲が広まるに従って一種の理想を生じ、その理想が分岐して、哲学者(または科学者)となり、文芸家となり実行家となり、その文芸家がまた四種の理想を作り、かつこれを分岐せしめて、各自に各自の欲する意識の連続を実現しつつあるのであります。要するに皆いかにして存在せんかの生活問題から割り出したものに過ぎません。だからして何をやろうとけっして実際的の利害を外《はず》れたことは一つもないのであります。世の中では芸術家とか文学家とか云うものを閑人《ひまじん》と号して、何かいらざる事でもしているもののように考えています。実を云うと芸術家よりも文学家よりもいらぬ事をしている人間はいくらでもあるのです。朝から晩まで車を飛ばせて馳《か》け廻っている連中のうちで、文学者や芸術家よりもいらざる事をしている連中がいくらあるか知れません。自分だけが国家有用の材だなどと己惚《うぬぼ》れて急がしげに生存上十人前くらいの権利があるかのごとくふるまってもとうてい駄目《だめ》なのです。彼らの有用とか無用とかいう意味は極めて幼稚な意味で云うのですから駄目であります。怒るなら、怒ってもよろしい、いくら怒っても駄目であります。怒るのは理窟《りくつ》が分らんから怒るのです。怒るよりも頭を下げてその訳でも聞きに来たらよかろうと思います。恐れ入って聞きにくればいつでも教えてやってよろしい。――私なども学校をやめて、縁側《えんがわ》にごろごろ昼寝《ひるね》をしていると云って、友達がみんな笑います。――笑うのじゃない、実は羨《うら
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