た刹那《せつな》を捉《とら》えて、その熱烈純厚の気象《きしょう》を前後に長く引き延ばして、二六時中すべてあのごとくせよと命ずるのは事実上有り得べからざる事を無理に注文するのだから、冷静な科学的観察が進んでその偽りに気がつくと同時に、権威ある道徳律として存在できなくなるのはやむをえない上に、社会組織がだんだん変化して余儀なく個人主義が発展の歩武《ほぶ》を進めてくるならばなおさら打撃を蒙《こうむ》るのは明かであります。
 こういうと何だか現在に甘んずる成行《なりゆき》主義のように御取りになるかも知れないが、そう誤解されては遺憾《いかん》なので、私は近時の或人のように理想は要《い》らないとか理想は役に立たないとか主張する考は毛頭ないのです。私はどんな社会でも理想なしに生存する社会は想像し得られないとまで信じているのです。現に我々は毎日或る理想、その理想は低くもあり小《ちいさ》くもありましょう、がとにかく或る理想を頭の中に描き出して、そうしてそれを明日実現しようと努力しつつまた実現しつつ生きて行くのだと評しても差支《さしつかえ》ないのです。人間の歴史は今日の不満足を次日物足りるように改造し次日
前へ 次へ
全37ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング