の不平をまたその翌日柔らげて、今日《こんにち》までつづいて来たのだから、一方から云えばまさしくこれ理想発現の経路に過ぎんのであります。いやしくも理想を排斥しては自己の生活を否定するのと同様の矛盾に陥《おちい》りますから、私はけっしてそう云う方面の論者として諸君に誤解されたくない。ただ私の御注意申し上げたいのは輓近《ばんきん》科学上の発見と、科学の進歩に伴って起る周密公平の観察のために道徳界における吾々の理想が昔に比べると低くなった、あるいは狭くなったというだけに過ぎない。だから昔のような理想の持ち方立て方も結構であるかも知れぬが、また我々も昔のようなロマンチシストでありたいが、周囲の社会組織と内部の科学的精神にもまた相当の権利を持たせなければ順応調節の生活ができにくくなるので、自然ナチュラリスチックの傾向を帯びるべく余儀なくされるのである。けれども自然主義の道徳と云うものは、人間の自由を重んじ過ぎて好きな真似《まね》をさせるという虞《おそれ》がある。本来が自己本位であるから、個人の行動が放縦不羈《ほうじゅうふき》になればなるほど、個人としては自由の悦楽を味い得る満足があると共に、社会の一人としてはいつも不安の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って他を眺めなければならなくなる、或る時は恐ろしくなる。その結果一部的の反動としては、浪漫的の道徳がこれから起らなければならないのであります。現に今小さい波動として、それが起りつつあるかも知れません。けれども要するに小波瀾《しょうはらん》の曲折を描《えが》く一部分に過ぎないので大体の傾向から云えばどうしても自然主義の道徳がまだまだ展開して行くように思われます。以上を総括して今後の日本人にはどう云う資格が最も望ましいかと判じてみると、実現のできる程度の理想を懐《いだ》いて、ここに未来の隣人同胞との調和を求め、また従来の弱点を寛容する同情心を持して現在の個人に対する接触面の融合剤とするような心掛――これが大切だろうと思われるのです。
 今日の有様では道徳と文芸と云うものは、大変離れているように考えている人が多数で、道徳を論ずるものは文芸を談ずるを屑《いさぎよ》しとせず、また文芸に従事するものは道徳以外の別天地に起臥《きが》しているように独《ひと》りぎめで悟《さと》っているごとく見受けますが、蓋《けだ》し両方とも嘘《うそ》である。その嘘である理由は今までやって来た分解で御合点《ごがてん》が行ったはずであります。もっとも社会と云うものはいつでも一元では満足しない。物は極《きわ》まれば通ずとかいう諺《ことわざ》の通り、浪漫主義の道徳が行きづまれば自然主義の道徳がだんだん頭を擡《もた》げ、また自然主義の道徳の弊が顕著になって人心がようやく厭気《いやけ》に襲《おそ》われるとまた浪漫主義の道徳が反動として起るのは当然の理であります。歴史は過去を繰返《くりかえ》すと云うのはここの事にほかならんのですが、厳密な意味でいうと、学理的に考えてもまた実際に徴してみても、一遍過ぎ去ったものはけっして繰返されないのです。繰返されるように見えるのは素人《しろうと》だからである。だから今もし小波瀾《しょうはらん》としてこの自然主義の道徳に反抗して起るものがあるならば、それは浪漫派に違いないが、維新前の浪漫派が再び勃興《ぼっこう》する事はとうてい困難である、また駄目である。同じ浪漫派にしても我々現在生活の陥欠を補う新らしい意義を帯びた一種の浪漫的道徳でなければなりません。
 道徳における向後の大勢及び局部の波瀾として目前に起るべき小反動は要するにかくのごとき性質のものであって、道徳と文芸との密接なる関係もまた上説のごとしとすれば、これからわが社会の要する文芸というものもまた同じ方向に同じ意味において発展しなければならないのも、また多言を要せずして明かな話であります。もし活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文芸としてよりほかに存在はできないものである、枯れてしまわなければならないのである。人工的に幾ら声を嗄《か》らして天下に呼号してもほとんど無益かと考えます。社会が文芸を生むか、または文芸に生まれるかどっちかはしばらく措《お》いて、いやしくも社会の道徳と切っても切れない縁で結びつけられている以上、倫理面に活動するていの文芸はけっして吾人内心の欲する道徳と乖離《かいり》して栄える訳がない。
 我々人間としてこの世に存在する以上どうもがいても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息する訳には行かない。道徳を離れることができなければ、一見道徳とは没交渉に見える浪漫主義や自然主義の解釈も一考して見る価値がある。この二つの言葉は文学者の専有物ではなくって、あなた方《がた
前へ 次へ
全10ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング