文芸と道徳」というのですから特にこの点に注意を払う必要があったのです。
 これで浪漫主義の文学と自然主義の文学とが等しく道徳に関係があって、そうしてこの二種の文学が、冒頭に述べた明治以前の道徳と明治以後の道徳とをちゃんと反射している事が明暸《めいりょう》になりましたから、我々はこの二つの舶来語を文学から切り離して、直に道徳の形容詞として用い、浪漫的道徳及び自然主義的道徳という言葉を使って差支《さしつかえ》ないでしょう。
 そこで私は明治以前の道徳をロマンチックの道徳と呼び明治以後の道徳をナチュラリスチックの道徳と名づけますが、さて吾々《われわれ》が眼前にこの二大区別を控えて向後|我邦《わがくに》の道徳はどんな傾向を帯びて発展するだろうかの問題に移るならば私は下《しも》のごとくあえて云いたい。「ロマンチックの道徳は大体において過ぎ去ったものである」あなた方《がた》がなぜかと詰問なさるならば人間の智識がそれだけ進んだからとただ一言答えるだけである。人間の智識がそれだけ進んだ。進んだに違ない。元は真《まこと》しやかに見えたものが、今はどう考えても真とは見えない。嘘《うそ》としか思われないからである。したがって実在の権威を失ってしまうからである。単に実在の権威を失うのみならず、実行の権利すら失ってしまうのである。人間の智識が発達すれば昔のようにロマンチックな道徳を人に強《し》いても、人は誰も躬行《きゅうこう》するものではない。できない相談だという事がよく分って来るからである。これだけでもロマンチックの道徳はすでに廃《すた》れたと云わなければならない。その上今日のように世の中が複雑になって、教育を受ける者が皆第一に自治の手段を目的とするならば、天下国家はあまり遠過ぎて直接に我々の眸《ひとみ》には映りにくくなる。豆腐屋が豆を潰《つぶ》したり、呉服屋が尺を度《はか》ったりする意味で我々も職業に従事する。上下|挙《こぞ》って奔走に衣食するようになれば経世利民仁義慈悲の念は次第に自家活計の工夫《くふう》と両立しがたくなる。よしその局に当る人があっても単に職業として義務心から公共のために画策遂行するに過ぎなくなる。しかのみならず日露戦争も無事に済んで日本も当分はまず安泰の地位に置かれるような結果として、天下国家を憂《うれい》としないでも、その暇に自分の嗜欲《しよく》を満足する計をめぐらしても差支《さしつかえ》ない時代になっている。それやこれやの影響から吾々《われわれ》は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡すようになっている。したがって吾々の道徳も自然個人を本位として組み立てられるようになっている。すなわち自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている。これが現代日本の大勢だとすればロマンチックの道徳換言すれば我が利益のすべてを犠牲に供して他のために行動せねば不徳義であると主張するようなアルトルイスチック一方の見解はどうしても空疎になってこなければならない。昔の道徳すなわち忠とか孝とか貞とかい字を吟味《ぎんみ》してみると、当時の社会制度にあって絶対の権利を有しておった片方にのみ非常に都合の好いような義務の負担に過ぎないのであります。親の勢が非常に強いとどうしても孝を強《し》いられる。強いられるとは常人として無理をせずに自己本来の情愛だけでは堪《た》えられない過重の分量を要求されるという意味であります。独《ひと》り孝ばかりではない、忠でも貞でもまた同様の観があります。何しろ人間一生のうちで数えるほどしかない僅少《きんしょう》の場合に道義の情火がパッと燃焼した刹那《せつな》を捉《とら》えて、その熱烈純厚の気象《きしょう》を前後に長く引き延ばして、二六時中すべてあのごとくせよと命ずるのは事実上有り得べからざる事を無理に注文するのだから、冷静な科学的観察が進んでその偽りに気がつくと同時に、権威ある道徳律として存在できなくなるのはやむをえない上に、社会組織がだんだん変化して余儀なく個人主義が発展の歩武《ほぶ》を進めてくるならばなおさら打撃を蒙《こうむ》るのは明かであります。
 こういうと何だか現在に甘んずる成行《なりゆき》主義のように御取りになるかも知れないが、そう誤解されては遺憾《いかん》なので、私は近時の或人のように理想は要《い》らないとか理想は役に立たないとか主張する考は毛頭ないのです。私はどんな社会でも理想なしに生存する社会は想像し得られないとまで信じているのです。現に我々は毎日或る理想、その理想は低くもあり小《ちいさ》くもありましょう、がとにかく或る理想を頭の中に描き出して、そうしてそれを明日実現しようと努力しつつまた実現しつつ生きて行くのだと評しても差支《さしつかえ》ないのです。人間の歴史は今日の不満足を次日物足りるように改造し次日
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