しても差支《さしつかえ》ない時代になっている。それやこれやの影響から吾々《われわれ》は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡すようになっている。したがって吾々の道徳も自然個人を本位として組み立てられるようになっている。すなわち自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている。これが現代日本の大勢だとすればロマンチックの道徳換言すれば我が利益のすべてを犠牲に供して他のために行動せねば不徳義であると主張するようなアルトルイスチック一方の見解はどうしても空疎になってこなければならない。昔の道徳すなわち忠とか孝とか貞とかい字を吟味《ぎんみ》してみると、当時の社会制度にあって絶対の権利を有しておった片方にのみ非常に都合の好いような義務の負担に過ぎないのであります。親の勢が非常に強いとどうしても孝を強《し》いられる。強いられるとは常人として無理をせずに自己本来の情愛だけでは堪《た》えられない過重の分量を要求されるという意味であります。独《ひと》り孝ばかりではない、忠でも貞でもまた同様の観があります。何しろ人間一生のうちで数えるほどしかない僅少《きんしょう》の場合に道義の情火がパッと燃焼した刹那《せつな》を捉《とら》えて、その熱烈純厚の気象《きしょう》を前後に長く引き延ばして、二六時中すべてあのごとくせよと命ずるのは事実上有り得べからざる事を無理に注文するのだから、冷静な科学的観察が進んでその偽りに気がつくと同時に、権威ある道徳律として存在できなくなるのはやむをえない上に、社会組織がだんだん変化して余儀なく個人主義が発展の歩武《ほぶ》を進めてくるならばなおさら打撃を蒙《こうむ》るのは明かであります。
こういうと何だか現在に甘んずる成行《なりゆき》主義のように御取りになるかも知れないが、そう誤解されては遺憾《いかん》なので、私は近時の或人のように理想は要《い》らないとか理想は役に立たないとか主張する考は毛頭ないのです。私はどんな社会でも理想なしに生存する社会は想像し得られないとまで信じているのです。現に我々は毎日或る理想、その理想は低くもあり小《ちいさ》くもありましょう、がとにかく或る理想を頭の中に描き出して、そうしてそれを明日実現しようと努力しつつまた実現しつつ生きて行くのだと評しても差支《さしつかえ》ないのです。人間の歴史は今日の不満足を次日物足りるように改造し次日
前へ
次へ
全19ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング